こんばんは。
更新が滞ってます。
もはや自分でもどんなテーマをどこまで掘り下げたのか、忘れそうですが、今回は、ありもしない予定を変更して、映画観賞記です。
攻殻機動隊 ARISE border1:ghost painを観てきました。
ちょっと時間が空いたし、1日って映画安いよな、と思って、映画館にいったら、攻殻機動隊やってる、と知って飛び込みで。
結果、本ブログが掘り下げたいテーマとかなりリンクして楽しめる内容だったため、書き留めておきます。
私自身は、攻殻機動隊シリーズを熱心に追いかけているわけではないので、シリーズの他作品の参照はしません。
ネタバレへの考慮も特にしません。
それから、観たところ、どうも、攻殻機動隊ファンへのサービス的な作品にも思えました。というのも、攻殻機動隊という作品群全体の時系列でいうと、今回の作品は、攻殻機動隊以前、という位置づけのようです。
観賞後、その手の感想を言っている方たちが多くいました。
ですが、本記事は、今回の「ARISE」単独を取り扱います。
あらすじは、追いかけないが、設定だけ確認。
基本的な設定として、登場人物の何人かは、いわゆる、アンドロイド、ヒューマノイドで、生身の人間に、電脳的なインターフェイスがあって、簡単に言えば、パソコンと自分をUSB接続して、情報をやり取りできるイメージ。
自分自身が情報であり、デバイス。
本作品も、そこからテーマが発生する。
テーマは、主人公、草薙素子の自立といってもいいかもしれない。
彼女の自立は、政治経済的側面と、彼女の実存的側面とにまたがった問題で、劇中の事件も、彼女(ストーリーに従っていえば、彼女のようなアンドロイドたち)の社会的権利をめぐって起きている。
その事件に関わる中で、彼女は自分自身の存在について、向き合うことになる。
このとき、両側面をつなぐものが、彼女の身体である。
例示がしやすくなりそうなので、適宜、二人称で話をすすめてみたい。
効果的かはわからないが。
あなたは、頸椎部にあるインターフェイスを通し、ネットにアクセスできる。
私が、私であることを、記憶の蓄積をヒントに、確認するように、あなたには、電子的なログがある。
そして、あなたは、ログを改ざんするウイルスに感染する。
あなたの、電子的なログは、身体制御とリンクしているため、例えば、視覚情報なども、改ざんされた状態で認識されることになる。
あなたの手もとに、一葉の写真がある。
そこには、幼いあなたと、若い母が写されている…
という視覚的な認識は、「母がいる」「母の顔」そういった情報の上に成り立つ。
つまり、その前提情報がすでにウイルスによってねつ造されたものである場合、視覚も、そのように認識する。
別の誰かがみたら、あなた一人しか写されていない写真かも知れないのだ。
あなたは、そのウイルスに感染してしまう。
あなたは、真実を見失い、そして、それを、欲する。
これまで、自分の存在の前提だったデータの信用がなくなる。
あなたは、何を信じていいのかわからない。
絶対性が欲しい。
ゆるがない情報。自らの存在をゆだねることのできる保証。
この状況は、似ている。
自分が何者であるかを、過去から構築していき、社会、世界との距離をはかり、ポジティブになったり、ネガティブになったり。
生きにくければ、自分を責め、問い直し、自分を構築しなおそうとする。あるいは、歩けなくなった自分の正当化にちょうど良い自分の構築。それらは、病気探し、自己のねつ造、いろいろな症状となってあらわれる。
生きる意味が欲しい。どんな疑問もよせつけない、存在の保証。
あなたは、ウイルスに感染し、よって立つものを失った。
そのとき、興味深い二つの方法によって、物語は進展する。
方法の一つ。
あなたは、頸椎部のインターフェイスを通じ、他人にアクセスする。
そう。共有されるものに保証を求める。
自分一人では自信の持てない認識を、他者にささえてもらう。僕もそうだよ、と言ってもらえる。
わかりやすい。
しかし、私は、これは危ういと思う。
共有が保証してくれる。ここには、多数決的な論理が働いている。
多いものが正義。そこでは、マイノリティが排斥される。
裏返れば、あなたを否定するのが多数決だ。
ただし、本作品のストーリー設定の巧みさがここにあり、インターフェイスでつながれた他者とは、死者なのだった。
つまり、ある存在が、死んだ、という固定的な状態に絶対性への回路を見出している。
しかし、私自身は、この設定にも、かすかな危うさを感じる。
他者との共有、連帯によって価値の保証を得ようとする。そして、その他者は死んでいる、という状況。
例えば、これは、先祖、伝統、歴史、への信仰、という構造に似ている。
わかりにくいだろうか。
個人レベルの状況を想像してみる。
例えば、大切な人を失った。そして、その人はあなたに遺言を残した。あなたは、それを、あなたの生きる意味ととらえて、生きていく。
例えば、大切な人を失った。その人はある病気によって亡くなった。あなたは、同じ病気で苦しむ人の支えとなることを、自らの存在理由とする。
美談的だし、よく聞くといえば失礼だろうか。
しかし、生きる意味に迷った時、これらの状況がねつ造される可能性があると、私は思う。
受験勉強ゲームでうまくいっている自分に薄っぺらさを感じてしまい、遠い知人がある病気で亡くなった、という状況をつかって、遠い知人が、大切な人、に格上げされ、医者を目指す理由を発生させる装置として機能させる医者志望の学生、とか。
誤解を生みやすい言い方になってしまっているが、私は、そういったねつ造自体を悪いと思わないし、健康な精神状態であるならば、ねつ造とも自覚されないだろう。
問題は、自分の認識を、自分で、ねつ造だろうか、と疑ってしまうことだと思う。
自分の生きる理由の都合のために、死者を利用しているのではないか?
そんな感じで、自問自答が始まる。
絶対性、保証、それらの確保ができなくなっている。
これは、死者を通して絶対性を確保しようとする場合の個人レベルの問題。
次に、もっと大きなレベルで考えてみる。
典型的なのが、ナショナリズムだ。
死者の絶対性。それは、規模が大きくなると、先祖、伝統といったものになる。
例えば、零戦に乗ってそして死んだ英霊。例えば原爆の被害者。彼らへの尊重と鎮魂が、日本という国への信仰につながる。
そして、ここからが、ナショナリズムの真骨頂という感じがするのだが、確かに、ナショナリズムは、あなた個人を救うシステムを備えている、と言っていいと思う。
例えば、戦後、焼け野原となった日本は、家族が休む家を建てなければならなかったし、お腹いっぱい食べられる食物を育てなければならなかった。
働くことは、国の利益だったし、それは、さらに言えば、天皇(日本における、ある種の、神さま)のため。
神の意志、国の意思、と、働く人の意志は、一直線で結ばれている。
つまり、生きる意味に迷わない。
どんな地味な、例えば、一日中、ねじ工場で、ねじを作ろうが、ボールペンを組み立てようが、中華まんの頭をねじろうが、それらは、家を支えるネジであり、教育を支えるペンであり、人々の腹を癒す中華まんなのである。
働く人は、誇りを持つことができる。
これが、絶対者、が機能するナショナリズムの効用だと思う。
もっと言えば、働く人とは、お父さんだった。お父さんは、国を支える、神と同一人物。
しかし、そうやってなしえた経済成長も、やがて、とまる。
実態すら追い越した景気はバブルとなってはじける。
生きる意味をまっさきに奪われたのは、お父さんだ。
そして、そのお父さんの子どもは、生きる意味の手本を見失う。
くたびれて、汗臭くなり、楽しくもない。
誰のために働いてると思ってるんだ!お前のためだ!
おんきせがましい、うざい、くさい、楽しくなさそう…
この状況の病理の具体化が、援助交際、と指摘する人もいる。
父と、子が、おかしくなってしまう。
さらに、援助交際が流行った時代に、オウム真理教のテロが起きていることも、示唆的に思える。
生きる意味を見失った者の暴走。
てきとうなことを言ってはいけないが、この時代、つまり、1990年代半ばに青春をすごした人に、いわゆるメンヘラが多い、というか、そこが、始まりな印象を受ける。
攻殻機動隊の観賞記だった本記事の風呂敷が広がりすぎている…
そう、自分の存在の保証、その絶対性の確保の方策、という話題だった。
映画では、他者(死者)との連絡、がその一つの方法として描かれていたのだった。
しかし、そこには、個人規模で言うと、ねつ造、社会規模で言うと、ナショナリズムの機能低下、という問題がありそうだ、と私は思う。
では、どうすればいいのか。
ちょっと、長くなってしまったので、エントリをわけます。
続きは、次回。
ちゃんと、書き、たい…
今日の、BGM、映画のエンディングテーマにしたかったのだけど、それは、次回のBGMにこそふさわしい、って感じがします。
どうしようかな。
今回は、サイバーパンクな話題があり、自己捏造、ナショナリズム、とガッチガチに硬質で、範囲も広大。
ただ、私たちが置かれている、社会状況、というもの。つまり、私たちが、映画の登場人物だとして、その世界設定にあたる話題を取り扱えたことは、ちょっと成果だったな、と思います。
なので、新しい、ナショナリズム、というか、あたらしい、日本の誇り、みたいなものは、案外こういう発想からかな、という動画にしてみます。愉快な映像です。