2013年6月18日火曜日

光と影に縛られるあなた




こんばんは。


最近、食べている。

つまらないものはいくら食べても満足しないし、おいしいものは適量で気分がいい。

そして、最近やりがちなのが、おいしいものをひたすら食うこと。

おいしいビュッフェとか食べ放題とか。



限界をこえて、さらに詰め込むと、食後、足や腕なんかが、ジリジリして、いいのかわるいのか知らないけど、栄養かなにかが、充満している感覚が得られる。


頭に血がいかず、ぼんやりとする。


そういったからだの状況を観察したりするのもけっこう楽しい。







で、前回は、なぜ自己執着してしまうのか、ということを今回のテーマにしようと予告しました。

そこには、神、が関わっているのではないか、と。




ところが、私の場合よくあることですが、次回以降に延期します。



ちょっとまだ、整理して書くには準備が足りない感じがしたので。

だからといって次、すばらしい読みやすさで書けるわけではないのだけれど。





それで、前回の記事にコメントやメッセージをくださった方がいて、うれしかったのですが、その中に、前回のBGMについてのものがありました。



スティーブ・ライヒはミニマル系などとカテゴライズされる現代音楽の作家なのですが、ライヒに限らず、また、音楽に限らず、芸術と精神のありようというのはとても興味深いものだと思います。


そういうテーマでも書きたいなと思っているところでした。



で、今回は、ライヒつながりで、彼の音楽を使用しているパフォーマンスアートを鑑賞してみようかなと思います。


























単調に思えるフレーズだが、微妙なズレを起こす音楽。

2人のダンサーはその音楽のズレと見事にシンクロしていて、美しい。





例えば、これをちょっと私の都合で、解釈してみる。






冒頭、カメラは引きでダンスを映している。


左右からのライトが、二人を照らす。
二方向からのライトは、二つの影を作るが、中央の影は重なって、陰影が濃い。



これを一人の人間の、精神のありようだと仮定して見てみる。



ダンサーは、ある時のあなただ。

人生のその時々で、あなたの気分も、価値観も、選択も、違ったかもしれない。

音楽が、あるいはダンサーが表現するように、そこには微妙なズレがある。

重複する影の濃い部分は、人生の様々な場面を経て浮き上がる、あなたの一貫性のようなものだ。


ずれたり、一致したりしながらも、時間が過ぎていく。

音楽も、人生も、時間芸術なのだと思う。





ところが、中盤あたり、カメラが寄る。



ダンサー一人にズームしたり、フレームから影がなくなる。



これは、あなた自身の一貫性の一つにすぎなかった、ある日のあなたと、また別の日のあなたが、分離している、と解釈できる。


ズームするのはカメラだけではない。


近づくにつれ、ダンサーが床を蹴る音、衣擦れの音、呼吸が聞こえる。




影を成すパーツでしかなかった身体が具体性、個別性をもって感じられるようになってくる。




そう、かつてのあなた、今のあなた、善のあなた、悪のあなた、戦うあなた、逃げるあなた、なんでもいいけれど、その時々で生身なのであり、美しいのは、その身体性。





come out.


現れる。





あなたが、現れる。

あなたは、社会と個人、とか、現実と夢、とか、いろんな角度から照射されることで、しばられ、悩み、その時々で、違った影を映し、それらを結んで、重ねて、できるだけ影の色を濃くしようとする。

それが、最大公約数的で、ブレがなく、社会性を保つ、自分だから。



しかし、その時々で、音をたて、肉を揺らして、息を吐き、動いていたのは、影ではない、生身のあなたそのものだ。

それが、come out する。




英語で、come outを実際に使ったことがあるが、掃除をしていて、汚れが取れたときなんかに、使う。

汚れがcame outした、って感じで。

日本語英語だと、何事か告白するときに、カミングアウト、という言い方をする。






アイデンティティだとか、価値観だとか、そういったものは、影でしかなく、あなたが何人いようとも、それぞれがあなた自身であり、結ぶ必要も、そろえる必要もない。


ライヒの音楽も、ダンサーも、ずれているのに、それがうつくしい。











そんな解釈ができる作品かな、みたいな。



もちろん、どう解釈してもいいのだろうし、私の解釈は一面的だと思う。


しかし、なにか素敵な作品なんかにふれて、これをだれかに伝えたい、というとき、私は言葉をつかう。


「いいよねー」


私はそれで済ませたくない。どこがどうしていいのか考えたくなる。

それが作品の価値を一面的にしてしまう恐れはあるけれど、頑張って伝えたくなる。



「考えさせられるねー」



どう考えさせられたのか言ってくれよ!








感受性という便利であいまいな言葉がある。





私は、誤解を恐れずいえば、感受性は言葉だと思う。

厳密な言葉を使うということは、網の目の細かいフィルターで、ものごとをすくいあげることだと思う。

自分のフィルターを通過するものごとをどう捕まえられるか。

私にとってそれは言葉。






とはいえ、「いま、私のフィルターを何かが通り過ぎた」という身体感覚が言葉以前の問題。




自分がいま、なにかに、違和感を感じた。




例えばそういうことは、意外と気づけなかったりする。



恋人の髪型がいつもと違うことを、目は捉えているのに、にもかかわらず言われるまで気づかず、「ああ、そういえば」みたいな。








身体に耳をすまして、厳密な言葉でつかまえる。


芸術はそれがたのしい。 



















美しいけれど硬い作品だったかもしれません。

あ、rosas と検索すると上の作品はヒットすると思います。

Rosas(ローザス)はベルギーだったかオランダだったかのダンスカンパニーです。





今夜のおやすみBGMは、ある意味真逆な、とことん柔らかくてストレートで美しいやつで。









2013年6月13日木曜日

ループする私と病 『私って…「と思う私って…≪と考える私って…{と、ここまで思う私って…




こんばんは。

前回の投稿から間が空いてしまいました。

海外から戻ってまだそれほど経っていないので、新しい仕事の雑事や、生活環境を整えるために100均に通ったり、そんな感じで時間は過ぎていました。

疲れました。

もっとマッサージに通いたいです。






最近は、あなたが生きる意味、という重たいテーマを取り扱っているところでした。





なぜ、生きる意味、というテーマに至ったか、その周辺の私の考えを振り返ると、




●うつには不治性がある。

●その不治性とは、うつが治るとうつになる、という特徴。

●なぜなら、あなたをうつにした環境が、うつから復帰したあなたを待っているから。

●その環境は、もっと言うなら、社会は、世界は、あなたの生きる意味や価値観やよろこびといったものとは無関係に存在している。







そもそもなぜ、生きる意味、といったものを探ろうとするのか。



●あなたの人生の選択の蓄積を線で結ぶことで、アイデンティティとよばれる、自分らしさがあらわになる。

●その自分らしさと、世界との距離が近ければ、元気に生きられる。

●逆に、ギャップが大きければ、納得しない魂のストレスが精神や身体を不調にさせる。

●そこで、自分に対する問い直しが図られる。

●これが、生きる意味の模索。

●それを行動的に具体化しているのが、例えば、旅人。






●なぜ、過去の選択を線で結ぶのか。

●自己執着があるから。




そんな感じで書いてきたつもりです。



構成も計画もないので、だいぶ理解しにくいかと思います。

もうちょっと上手に書きたい。









今回は、生きる意味、と並行するもう一つの大きなテーマ、自己執着、について考えてみたいと思います。







以前にも、少しふれたが、自己執着は、言い方をかえれば、自意識が強い、ということで、それは、ポジティブ、ネガティブどちらだろうと、自分にこだわっていることに、違いはない。
プラスかマイナスかではなく、数値的な大きさ。



●だから、ネガティブに自己執着している人に、ポジティブシンキングをすすめることは、逆効果でさえあると思う。

ポジティブ方向の自己執着が、はねかえってくるからだ。







そもそも自己執着とはなんなのか考えてみる。


多くの人が自意識を持っている。

とりわけ、うつのひとは、自意識が(負の方向に)強いと思う。

自分の症状を開陳したり、死にます、といってみたり、また、そのような自分への視線も自意識的で、かまってちゃんでごめんなさい、とか、あんなことを言ってしまってバカみたい、とか、でももう元気になったのでがんばるぞ、とか。




これに対し、




あなたの魂の叫びなんて、あなたの病状なんて、誰も気にしちゃいないよ、気にされてると思ってるの?ずうずしいね。




そういうふうに、だれかの自己執着を指摘することは案外簡単だと思う。



なぜなら、そうやってかまってちゃんを批判する動機が、実のところ、

●『「私はあんなふうに自己執着していない」と思われたいという自己執着』

によるものかもしれないからだ。




●つまり、自意識過剰と思われるのが許せないほどの自意識過剰。





あーー、言葉遊びじみてしまう。


でも結構重要だと思うんだ。





「うつの症状とは、うつが治るとうつになること」


「自意識過剰だと思われるのが許せないほど自意識過剰」



例えば上の二つの文章はどこか似ている。



専門的なことをいうのは正確性に欠けるかもしれないのでひかえたいが、たぶん、論理学で言う循環定義のような状態だと思う。


つまり、Aの定義にAが含まれてしまうという状態で、無限に言及し続けてしまう。



自意識過剰な人が陥りやすい脳みその状態も、こういう感じのように思われる。


●『私って…「と思う私って…≪と考える私って…{と、ここまで思う私って…}≫」』



金太郎あめみたいに、どこを切っても自分が出てくる。

箱の中に箱があるように。

永遠の合わせ鏡。


終わりがない。


自分はしつこいほどに自分で、うつはどこまでも追いかけてくる。




●自己執着もうつも、この構造をしている。








今回は自己執着の構造について、なんかくどく考えてみました。





●もし、うつ、と自己執着が、同じ構造をしているのなら、自己執着の解消は、うつの解消。あるいはその逆、ということになるのかもしれません。









次回以降は、なぜ、自己執着してしまうのか、というところを考えてみたいと思います。





私は、神、が関わっていると思います。

なんか、あやしい勧誘とかしませんよ。

たぶん、日本人が無神論者、というのはうそだとおもいます。



そんな感じで、また。









今日のBGM


ループする自分。ループする病。

ループする音楽の気持ちよさと奇妙さ。









2013年6月2日日曜日

5月の記事ダイジェスト




5月中に書いた記事をダイジェストにした、つもりです。

ダイジェストとはいえ、10記事分なので、結局長い。

もっと、お互いが労力を必要としないスタイルも模索しようと思っています。



読んでくださってる方、ありがとうございます。



以下、各記事の要約、のつもりです。















いま、この夜は、私だけのもの

嘘をついて、逃げよう。

自分と向き合うとか、問題と向き合うとか、そんなことより、おいしいものを食べて、好きな本を読んで、ふとんにくるまろう。

必要なのはあなたを守る、嘘と逃げ道。そのための、情報。


夜はやさしい。

真実も嘘も関係なく、あなただけをつつむだろう。

それを孤独と呼ぶのなら、私は夜のような文章を書きたい。






はじめに

はじめまして。

はじめまして、という独り言は存在しない。

あなたがだれで、私が何者か、どうだっていいのかもしれない。

けれど私には、言いそびれた言葉がたくさんあって、言いそびれた相手はどこにいるのかわからない。

後ろ姿が似ていたので声をかけると人違いの旅人だった。旅人と話していると、まるでその人だった。
その人はうつ病だった。旅人は陽に焼かれ、大きなバックパックを背負っていた。
2人は似ている。

うつと旅は似ている。

だから、この場所で、はじめまして、と言うことにする。


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やりたいこととやりたくないことの天秤のバネが狂っていないと生きられない


初めての発作と、初めての精神科と初めての抗鬱薬。

病名にこだわるという病気。

病気を集めるという病気。

「仕方ないよ、病気だから」と自分に言いたい、誰かに言われたい。

それは言い訳の病。

言い訳することに良いも悪いもない。

重要なのは、あなたが言い訳を必要とする状況にあるということ。

逃げるべきは、言い訳がなければ休むことができない状況。






彼女をさがさない

彼女ができた。

彼女はながくうつ病だという。

私たちはつきあい、そして別れた。

彼女がどこにいるかわからない。

やり直そうとは思わない。

ときどき、彼女の今をのぞけないかと思う。

何をしていても、どういう状態でもかまわない。どこかにいるなら。

私自身は、彼女に、のぞいてほしいと思うだろうか。






新型うつ病は治らない、ような気がするので


自分と世界との関係。

それを表すものの一つにインターフェイスがある。

ドア、インターフォン、ケータイ、檻、メガネ…人によって何がインターフェイスになっているか、また、そのあり様も異なる。


そんなことを考える行為が私にとっての、うつへのアプローチの一つ。

病気へのアプローチはもっと、自由度が高くてもいいのではないか。

だから、お詫び付きで、言ってみることにする。

新型うつは治らない。

その理由はあらためて。






ブログのネーミングと自分語り。

私の、いわば青春の、ある夜の出来事。

カネダとの別れとメロディの降る夜。

weezerの「the good life」。





病気が真実か嘘かはどちらでもよい。

病名を欲することには、危険性がある。

それは、自分の状態の信憑性をめぐるババ抜きゲーム。

嘘か本当か。それはどちらでもよい。

共通するのは、自分の状態を認めてもらう必要性がある、ということ。

つまり、休息を欲しているということ。

休息が必要なのに、休息の許可をめぐって、嘘か本当か、というゲームに縛られると休息にたどり着くことができない。

休息の許可の申請は、社会に対してと、自分自身に対してなされる。

社会に許可申請するのは、自分自身の許可を得た後になることが一般的であるだろうから、問題は、まず、自分からということになる。





躁、うつ、買い物の関係

私の躁状態について。

amazonをはじめ、自分の購買履歴を振り返ると、6月前後に買い物が多かったり、大きめの買い物をしていた。

それは、私が躁っぽくなる時期と重なっている。

特別な買い物にかぎらず、自分の調子が良かったり、悪かったり、いずれにせよ、特別なときには、買い物の様子が普段と違うことがある。

自分の状態と、お金の出入りの相関はチェックすると興味深い結果が出るかもしれない。






あなたが生きる意味と、アイデンティティの罠

自意識の強さとうつには関係がある。

自意識が強い、ということは、自己評価が高いか低いかに関わらない。

自分が好きだろうが、嫌いだろうが、自分にこだわっている、という意味で自己執着している。

自己執着の度合が、自意識の強さ。


自分の歴史に存在する、分岐点。

それらをつなぐ線がアイデンティティ。

アイデンティティという線は、過去から未来へ伸びていき、これから立ち止まる分岐点では、アイデンティティが選択を決定しようとする。

自己執着、自分らしさから、納得のいかない選択ができない。

しかし、あなたが生きる世界は、あなたらしさを無視して存在している。

そこには、生きる意味が見いだせない。

新型うつの不治性はここにある。

元気になっても、復帰先に生きる意味がないからだ。

自分らしさとは何か。生きる意味とは何か。






調子悪い。横になります。

個人的に棚上げにしていた問題に触れてみたら、どうにも調子が悪い。

マッサージを受けに行きたい。

そんなぼやき。








以上、5月分のダイジェスト記事でした。

今後もお読みいただけたら、と思います。















BGM


こういう歌って、重いのだろうか、調子よくなるのだろうか。


2013年6月1日土曜日

旅と、うつと、かつての約束




こんばんは。今が何時だろうと。


調子悪かったんですけど、いろいろ無視してたら、時間は過ぎていて、問題と距離を取れた感じです。

社会人としては、ダメなんでしょうけど、死刑になるわけでもないし、へらへらと過ごしている感じです。



ここ最近、テーマに取り上げていたのは、生きる意味、でした。


前々回は、アイデンティティという概念を例にあげ、



選択の連続


自分らしさ


自己執着


自分らしさを保障しない世界への違和感


うつ


生きる意味を問う



かなり、乱暴だが、そういう感じのことを書いたつもりです。

それで、予告的に、




ひとはなぜ自分らしさを求めるのか、

生きる意味とは、




をテーマに書きたいと言って、私は、調子悪くなり、今回に至りました。


で、生きる意味、ってやばいテーマというか、こんないちブログごときが解き明かせる問題ではないのですが、思うところを書きます。

だけど、ちょっと、一度テーマを変えて、次回以降に持ち越します。





今回考えてみたいテーマは、うつと旅、について。



これは、私の中で、生きる意味を問う行動の具体例かもしれない、と思うところがあるし、さらに言えば、うつに対して、効力があるかもしれないとさえ思ったりしています。


今後取り上げる、生きる意味というテーマや、うつへの具体的なアプローチ方法を考える上での補助線にもなりうると思い、今回のテーマにしてみようと思います。






とは言うものの、どこから書いたらいいのだろうか。







私は、昨年から、今年にまたがって、タイに半年ほど住んだ。

仕事の事情もあったし、せっかくのタイなのだからと、休暇もからめたために、長期滞在となった。

以前の記事でも触れたが、そこで多くの旅人と出会うことになる。

世界一周の最中のひと、東南アジアを数か月というひと、1か月タイでマッサージを習う人、数日の休暇というひと、ノープランというひと、世界二周目というひと、様々だった。



そういうことをする人には、当然だが、日本では出会いにくい。いないのだから。
旅先には旅人ばかりいる。あたりまえか。


しかし、珍しい人種である彼ら彼女らとは、とても気が合った。

いろんな国をまわり、いやがおうにも、色んな人とコミュニケーションをとる必要があるから、コミュニケーション能力が高いのかも知れないとは思う。


だけど、決してそれだけではなく、なんというか、くさい言い方になるが、魂の色や形や傷が似ている、そう感じた。



手に職、と言われる仕事、ノマドワーク、など例外はあるかもしれないが、長期で日本を離れることは、履歴書的に不利であることが多く、経済的にも負担は大きい。

仮に世界一周をするとすれば、100万円ではかなり少ないと思われる。


では、彼ら彼女らは、そういうデメリットやコストをものともしない、欲求に忠実で、行動的で、いわばリア充なのか、と思うと、案外そういう人は少ない。


行動の連続ではあるし、やりたいことに素直でなければ、そういうことはできない。

しかし、彼ら彼女らは、とても内省的、というか、旅がしたいからしているかというと、それほどシンプルでもないように見えた。


自分探し、というと手垢まみれで、恥ずかしい言葉でさえあるが、旅人は、日本でわからなくなってしまった、自分の生きる意味を模索するうちに、とりあえず世界へ、という感じでやっているひとが多いんじゃないかと感じた。



行動の動機を迷いなく答えられる人には、あこがれもあるが、一方で私は少しいぶかしんでしまう。







なぜ、それを選んだのですか?


そりゃ金のためさ。

長年の夢だったからね。







金のためさ、


親のためさ、


老後のためさ、


夢のためさ、



そういうことを簡単に言うことができない人は、旅にでたり、うつになったり、芸術を志したり、犯罪をしたり、ということになる傾向があると勝手だが想像する。





シンプルな答えに、あきらめ、を感じたり、自分への嘘を自覚したり、そういう傾向が、旅人や、うつのひと、一部のひとにはあると思う。







なぜ、それに、あきらめ、を感じる?

もっと挑戦する自己イメージがあるからだろう。





なぜ、自分へ嘘をついたのだと感じる?

それは、自分との約束があると思っているからだろう。






「おれは、まだ、なにも何も成し遂げていない。」


「10年前のあたしが泣いてる声がする。」




そうやって、かつての自分との約束を果たそうと、まったく疑いようのない、絶対の真実はどこにあるか、と世界へ旅に出る、あるいは、自分の内側の世界をさぐるようになる。





旅人はそういう人間が多いと思う。
うつのひとも。







旅は真実に至るまで、終えられない。


旅には動機がないに違いない。

旅の最中で、絶対に揺るがず、誰からも疑問に思われない、旅の動機が見つかることを、旅人は夢みている。






あるひとは、

この恵まれない人々の生活を救いたい、




またあるひとは、

ヨガを極めたい、




そうやって、そのひとの旅の終わりにたどり着こうとする。














あえて、言ってしまおう。



それは、求めていた絶対の答えではない。









恵まれないひとの助けになろうとする、そうしたいのはなぜ、その土地なのはなぜ、なぜその方法で、なぜ、なぜ、、、


そうやって、自分で自分を問い詰めることができる。


その時どうこたえるのか。






●それは、あきらめ、だと認識する。旅は終わりなのだと。もう、旅してばかりもいられないんだ、と。
そして、何かに身を投じる。あるいは社会へ帰る。それはあきらめから始まる社会への再参加かもしれない。


●過去をねつ造する。
例えば、「小さいころ観たドキュメンタリーが忘れられず、それで。」と、自問するまで、忘れていたような記憶にズームする。今まで、気にも留めていなかった過去のあれこれを、あらためて大きくとりあげ、線で結び、それが自分の夢だったのだ、と語る。

いつだったか、ニュース番組が、超難関中学の合格発表日を取材していた。

「将来は何になるの?」
「弁護士です」
「どうして、弁護士になりたいの?」
「・・・えん罪のひとを助けたいから」

私は酷なシーンだと思った。
その子はゲームにのっただけだと思う。

夢は何か、という不可能性のかたまりのような質問。
その子は、身の回りにえん罪がなかったか探すかもしれない。今後えん罪を探すようになるかもしれない。





●これはやはり、答えではなかったのだ、と旅を延長する。
こうやって、旅それ自体が目的になっていくひとも多いと思われる。自分探しが自分になる、というような構造か。






まるで、否定的な書き方をしてしまった。

決めつけのような解釈でもある。申し訳ないと思う。
旅先でしか見られない、美しい景色や、かけがえのない出会いもあるだろう。

世界は、人間の都合とは無関係に、そこにあるのだけれど。






旅人に対する私の勝手な想像、解釈。

興味深いのは、きっと、この解釈が、うつのひとの、少なくとも一部のひとにはまるまる適用できると思われることだ。



だから、私は旅人にシンパシーをおぼえずにはいられず、許されるなら、彼ら彼女らも私に共感を示してくれた、と言いたい。






ここまでの考察で、ひとまず、結論を出すなら、



うつ、旅、には、

●かつての自分との約束を果たそうとする

●また、絶対の答えを探そうとする、

という共通点がある。



そして、それが、

●旅を終えられない理由になりえ、

●また、うつが治らない理由にもなりうる。









このへんで、終わりにします。














ここからは、蛇足というかそんな感じです。






















旅がうつに良いかどうか、おいそれとは言えない。


急激な環境変化はさける、というのが、治療上のセオリーとも聞く。






ただ、私は思うのだが、世界には、まったく違う価値観で動いている社会やコミュニティがあり、そこに生きる人びとがいる、ということを知るのは、あなたの気を楽にさせる可能性があると思う。



新型うつ、とよばれるような、自分の納得のいかない環境に拒否反応がでる場合、回復を試みても、結局は、時間をおいて、体を休めただけで、魂とそれをとりまく環境はかわっていない。




復帰先がうつにさせる。どうどうめぐりの不治性。




ならば、その環境から逃げることが大切だと思う。


全く別の世界を自分に用意してあげる。



いま、あなたがいるそこだけが、すべてではない。答えが見つからなかったとしても、逃げこんだ先は、答えをさがさなくてもいいという価値観の世界かも知れない。







旅程や金銭的なこと、環境など、具体的になるけれど、


まず、期間は長いほうがいいと思う。

数日では、日本で温泉旅行するのとさしてかわらないかもしれない。



2週間程度だと、旅先になじんでいないので日本の良さが目につくと思う。
実際、日本はすごい。あらゆるインフラの完成度が高く、生活環境の精密さは異常にクオリティが高い。


私自身は2か月ほど経った頃から、物価の相場感覚が身に付き、コミュニケーションの勘所がわかってきたような感覚を得た。


長期間となると、それだけの生活費が要る。

また、滞在先にたよれる医療機関があるかも調べる必要がある。





私自身は、タイ東北部、特にチェンマイに長く滞在したが、物価は安く、月に6~7万あれば、まずまずの生活ができると思う。

タイ式マッサージ、ヨガ、といった身体性の文化も充実しており、スクールなども多いので、習いに通うのもいいと思う。

ベジタリアンレストランなど、タイの食文化だけでなく充実しているし、料理教室もみかける。




なんとなく社会とのつながりを意識させる行為はあったほうが精神衛生にいいのでスクールに通うなどは良いと思うし、なによりも、異国の地で、不自由な言語環境で、身体を観察する、という経験は、ハマる。私はハマった。


バガボンドという漫画の、佐々木小次郎が、聾唖、という設定で、語り合う相手が自分の身体感覚のみで、最強と言われる剣士に育つように、街中に日本語がなく、タイ語もほとんどわからない、必要な英語程度、そういう環境にいると、脳内が静かであることに気づく。





うつを旅先は受け入れてくれるだろうか。



わからない。それは不安だ。




日本人は多い。欧米人も多い。




私は、多少自分を偽って行くぐらいがちょうどいいと思う。


日本に、仕事に、疲れちゃってね、バケーションにきたよ。

そうやって、クラスメイトや、ゲストハウスやどこかで出会う人と話したらいいと思う。

旅人はやさしい。







これは、あくまで、実験的な想像です。



実際に行って、調子が悪くなる場合もあるのかもしれない。

責任はもてない。


けど、まあ、悪くないと正直思っている。



チェンマイの情報なら、多少あるので、気になる人は気軽にきいてください。













ちょっと助長気味BGM