2013年6月18日火曜日

光と影に縛られるあなた




こんばんは。


最近、食べている。

つまらないものはいくら食べても満足しないし、おいしいものは適量で気分がいい。

そして、最近やりがちなのが、おいしいものをひたすら食うこと。

おいしいビュッフェとか食べ放題とか。



限界をこえて、さらに詰め込むと、食後、足や腕なんかが、ジリジリして、いいのかわるいのか知らないけど、栄養かなにかが、充満している感覚が得られる。


頭に血がいかず、ぼんやりとする。


そういったからだの状況を観察したりするのもけっこう楽しい。







で、前回は、なぜ自己執着してしまうのか、ということを今回のテーマにしようと予告しました。

そこには、神、が関わっているのではないか、と。




ところが、私の場合よくあることですが、次回以降に延期します。



ちょっとまだ、整理して書くには準備が足りない感じがしたので。

だからといって次、すばらしい読みやすさで書けるわけではないのだけれど。





それで、前回の記事にコメントやメッセージをくださった方がいて、うれしかったのですが、その中に、前回のBGMについてのものがありました。



スティーブ・ライヒはミニマル系などとカテゴライズされる現代音楽の作家なのですが、ライヒに限らず、また、音楽に限らず、芸術と精神のありようというのはとても興味深いものだと思います。


そういうテーマでも書きたいなと思っているところでした。



で、今回は、ライヒつながりで、彼の音楽を使用しているパフォーマンスアートを鑑賞してみようかなと思います。


























単調に思えるフレーズだが、微妙なズレを起こす音楽。

2人のダンサーはその音楽のズレと見事にシンクロしていて、美しい。





例えば、これをちょっと私の都合で、解釈してみる。






冒頭、カメラは引きでダンスを映している。


左右からのライトが、二人を照らす。
二方向からのライトは、二つの影を作るが、中央の影は重なって、陰影が濃い。



これを一人の人間の、精神のありようだと仮定して見てみる。



ダンサーは、ある時のあなただ。

人生のその時々で、あなたの気分も、価値観も、選択も、違ったかもしれない。

音楽が、あるいはダンサーが表現するように、そこには微妙なズレがある。

重複する影の濃い部分は、人生の様々な場面を経て浮き上がる、あなたの一貫性のようなものだ。


ずれたり、一致したりしながらも、時間が過ぎていく。

音楽も、人生も、時間芸術なのだと思う。





ところが、中盤あたり、カメラが寄る。



ダンサー一人にズームしたり、フレームから影がなくなる。



これは、あなた自身の一貫性の一つにすぎなかった、ある日のあなたと、また別の日のあなたが、分離している、と解釈できる。


ズームするのはカメラだけではない。


近づくにつれ、ダンサーが床を蹴る音、衣擦れの音、呼吸が聞こえる。




影を成すパーツでしかなかった身体が具体性、個別性をもって感じられるようになってくる。




そう、かつてのあなた、今のあなた、善のあなた、悪のあなた、戦うあなた、逃げるあなた、なんでもいいけれど、その時々で生身なのであり、美しいのは、その身体性。





come out.


現れる。





あなたが、現れる。

あなたは、社会と個人、とか、現実と夢、とか、いろんな角度から照射されることで、しばられ、悩み、その時々で、違った影を映し、それらを結んで、重ねて、できるだけ影の色を濃くしようとする。

それが、最大公約数的で、ブレがなく、社会性を保つ、自分だから。



しかし、その時々で、音をたて、肉を揺らして、息を吐き、動いていたのは、影ではない、生身のあなたそのものだ。

それが、come out する。




英語で、come outを実際に使ったことがあるが、掃除をしていて、汚れが取れたときなんかに、使う。

汚れがcame outした、って感じで。

日本語英語だと、何事か告白するときに、カミングアウト、という言い方をする。






アイデンティティだとか、価値観だとか、そういったものは、影でしかなく、あなたが何人いようとも、それぞれがあなた自身であり、結ぶ必要も、そろえる必要もない。


ライヒの音楽も、ダンサーも、ずれているのに、それがうつくしい。











そんな解釈ができる作品かな、みたいな。



もちろん、どう解釈してもいいのだろうし、私の解釈は一面的だと思う。


しかし、なにか素敵な作品なんかにふれて、これをだれかに伝えたい、というとき、私は言葉をつかう。


「いいよねー」


私はそれで済ませたくない。どこがどうしていいのか考えたくなる。

それが作品の価値を一面的にしてしまう恐れはあるけれど、頑張って伝えたくなる。



「考えさせられるねー」



どう考えさせられたのか言ってくれよ!








感受性という便利であいまいな言葉がある。





私は、誤解を恐れずいえば、感受性は言葉だと思う。

厳密な言葉を使うということは、網の目の細かいフィルターで、ものごとをすくいあげることだと思う。

自分のフィルターを通過するものごとをどう捕まえられるか。

私にとってそれは言葉。






とはいえ、「いま、私のフィルターを何かが通り過ぎた」という身体感覚が言葉以前の問題。




自分がいま、なにかに、違和感を感じた。




例えばそういうことは、意外と気づけなかったりする。



恋人の髪型がいつもと違うことを、目は捉えているのに、にもかかわらず言われるまで気づかず、「ああ、そういえば」みたいな。








身体に耳をすまして、厳密な言葉でつかまえる。


芸術はそれがたのしい。 



















美しいけれど硬い作品だったかもしれません。

あ、rosas と検索すると上の作品はヒットすると思います。

Rosas(ローザス)はベルギーだったかオランダだったかのダンスカンパニーです。





今夜のおやすみBGMは、ある意味真逆な、とことん柔らかくてストレートで美しいやつで。









3 件のコメント:

  1. 自分に纏う影、
    どうやっても切り離すことのできない影。
    剥ぎとってしまいたい影。
    影と魂と生身の私。

    返信削除
  2. 自分に纏う影。
    剥ぎとってしまいたい影。
    影と魂と生身の私。
    3つ揃ってこそ私になるのかな。

    返信削除
  3. >匿名さん

    光は、あなたのみを照らすわけでもなければ、誰かを照らしているわけでもなく、ただ、ひたすら燃えながらぐるぐる周っています。
    影をみることは、照らされている自分を見ようとすることで、あなたを照らす光は、ただただ燃えて周っているだけです。光の都合で出来上がる影は、あなたが望むかたちをしていないかもしれません。
    たまにはふと、目をとじて、光の温もりや、闇の涼やかさに身体をあずけて、無意味な時間に、気持ちよさを感じるのもいいんじゃないかなって思います。

    何かをあきらめるわけじゃあない。

    何かを手放す自由を楽しむことができるということ。

    返信削除