こんばんは。
前回の投稿から間が空いてしまいました。
海外から戻ってまだそれほど経っていないので、新しい仕事の雑事や、生活環境を整えるために100均に通ったり、そんな感じで時間は過ぎていました。
疲れました。
もっとマッサージに通いたいです。
最近は、あなたが生きる意味、という重たいテーマを取り扱っているところでした。
なぜ、生きる意味、というテーマに至ったか、その周辺の私の考えを振り返ると、
●うつには不治性がある。
●その不治性とは、うつが治るとうつになる、という特徴。
●なぜなら、あなたをうつにした環境が、うつから復帰したあなたを待っているから。
●その環境は、もっと言うなら、社会は、世界は、あなたの生きる意味や価値観やよろこびといったものとは無関係に存在している。
そもそもなぜ、生きる意味、といったものを探ろうとするのか。
●あなたの人生の選択の蓄積を線で結ぶことで、アイデンティティとよばれる、自分らしさがあらわになる。
●その自分らしさと、世界との距離が近ければ、元気に生きられる。
●逆に、ギャップが大きければ、納得しない魂のストレスが精神や身体を不調にさせる。
●そこで、自分に対する問い直しが図られる。
●これが、生きる意味の模索。
●それを行動的に具体化しているのが、例えば、旅人。
●なぜ、過去の選択を線で結ぶのか。
●自己執着があるから。
そんな感じで書いてきたつもりです。
構成も計画もないので、だいぶ理解しにくいかと思います。
もうちょっと上手に書きたい。
今回は、生きる意味、と並行するもう一つの大きなテーマ、自己執着、について考えてみたいと思います。
以前にも、少しふれたが、自己執着は、言い方をかえれば、自意識が強い、ということで、それは、ポジティブ、ネガティブどちらだろうと、自分にこだわっていることに、違いはない。
プラスかマイナスかではなく、数値的な大きさ。
●だから、ネガティブに自己執着している人に、ポジティブシンキングをすすめることは、逆効果でさえあると思う。
ポジティブ方向の自己執着が、はねかえってくるからだ。
そもそも自己執着とはなんなのか考えてみる。
多くの人が自意識を持っている。
とりわけ、うつのひとは、自意識が(負の方向に)強いと思う。
自分の症状を開陳したり、死にます、といってみたり、また、そのような自分への視線も自意識的で、かまってちゃんでごめんなさい、とか、あんなことを言ってしまってバカみたい、とか、でももう元気になったのでがんばるぞ、とか。
これに対し、
あなたの魂の叫びなんて、あなたの病状なんて、誰も気にしちゃいないよ、気にされてると思ってるの?ずうずしいね。
そういうふうに、だれかの自己執着を指摘することは案外簡単だと思う。
なぜなら、そうやってかまってちゃんを批判する動機が、実のところ、
●『「私はあんなふうに自己執着していない」と思われたいという自己執着』
によるものかもしれないからだ。
●つまり、自意識過剰と思われるのが許せないほどの自意識過剰。
あーー、言葉遊びじみてしまう。
でも結構重要だと思うんだ。
「うつの症状とは、うつが治るとうつになること」
「自意識過剰だと思われるのが許せないほど自意識過剰」
例えば上の二つの文章はどこか似ている。
専門的なことをいうのは正確性に欠けるかもしれないのでひかえたいが、たぶん、論理学で言う循環定義のような状態だと思う。
つまり、Aの定義にAが含まれてしまうという状態で、無限に言及し続けてしまう。
自意識過剰な人が陥りやすい脳みその状態も、こういう感じのように思われる。
●『私って…「と思う私って…≪と考える私って…{と、ここまで思う私って…}≫」』
金太郎あめみたいに、どこを切っても自分が出てくる。
箱の中に箱があるように。
永遠の合わせ鏡。
終わりがない。
自分はしつこいほどに自分で、うつはどこまでも追いかけてくる。
●自己執着もうつも、この構造をしている。
今回は自己執着の構造について、なんかくどく考えてみました。
●もし、うつ、と自己執着が、同じ構造をしているのなら、自己執着の解消は、うつの解消。あるいはその逆、ということになるのかもしれません。
次回以降は、なぜ、自己執着してしまうのか、というところを考えてみたいと思います。
私は、神、が関わっていると思います。
なんか、あやしい勧誘とかしませんよ。
たぶん、日本人が無神論者、というのはうそだとおもいます。
そんな感じで、また。
今日のBGM
ループする自分。ループする病。
ループする音楽の気持ちよさと奇妙さ。
神が関係している。なんとなくわかります。
返信削除この世の不思議なことすべて、なるようになったと言い難いことの数々。変な宗教じゃなくて、それは真実だと・・・
お読みいただきありがとうございます。
返信削除まさに、世界は不思議なことであふれています。
それを自分寄りに解釈することもできるし、神のなせる業、と感じることもできます。
おっしゃるとおり、そういう、条理と不条理、のようなテーマで考えてみたいなというところです。
どうかまた読みに来てください。