2013年6月1日土曜日

旅と、うつと、かつての約束




こんばんは。今が何時だろうと。


調子悪かったんですけど、いろいろ無視してたら、時間は過ぎていて、問題と距離を取れた感じです。

社会人としては、ダメなんでしょうけど、死刑になるわけでもないし、へらへらと過ごしている感じです。



ここ最近、テーマに取り上げていたのは、生きる意味、でした。


前々回は、アイデンティティという概念を例にあげ、



選択の連続


自分らしさ


自己執着


自分らしさを保障しない世界への違和感


うつ


生きる意味を問う



かなり、乱暴だが、そういう感じのことを書いたつもりです。

それで、予告的に、




ひとはなぜ自分らしさを求めるのか、

生きる意味とは、




をテーマに書きたいと言って、私は、調子悪くなり、今回に至りました。


で、生きる意味、ってやばいテーマというか、こんないちブログごときが解き明かせる問題ではないのですが、思うところを書きます。

だけど、ちょっと、一度テーマを変えて、次回以降に持ち越します。





今回考えてみたいテーマは、うつと旅、について。



これは、私の中で、生きる意味を問う行動の具体例かもしれない、と思うところがあるし、さらに言えば、うつに対して、効力があるかもしれないとさえ思ったりしています。


今後取り上げる、生きる意味というテーマや、うつへの具体的なアプローチ方法を考える上での補助線にもなりうると思い、今回のテーマにしてみようと思います。






とは言うものの、どこから書いたらいいのだろうか。







私は、昨年から、今年にまたがって、タイに半年ほど住んだ。

仕事の事情もあったし、せっかくのタイなのだからと、休暇もからめたために、長期滞在となった。

以前の記事でも触れたが、そこで多くの旅人と出会うことになる。

世界一周の最中のひと、東南アジアを数か月というひと、1か月タイでマッサージを習う人、数日の休暇というひと、ノープランというひと、世界二周目というひと、様々だった。



そういうことをする人には、当然だが、日本では出会いにくい。いないのだから。
旅先には旅人ばかりいる。あたりまえか。


しかし、珍しい人種である彼ら彼女らとは、とても気が合った。

いろんな国をまわり、いやがおうにも、色んな人とコミュニケーションをとる必要があるから、コミュニケーション能力が高いのかも知れないとは思う。


だけど、決してそれだけではなく、なんというか、くさい言い方になるが、魂の色や形や傷が似ている、そう感じた。



手に職、と言われる仕事、ノマドワーク、など例外はあるかもしれないが、長期で日本を離れることは、履歴書的に不利であることが多く、経済的にも負担は大きい。

仮に世界一周をするとすれば、100万円ではかなり少ないと思われる。


では、彼ら彼女らは、そういうデメリットやコストをものともしない、欲求に忠実で、行動的で、いわばリア充なのか、と思うと、案外そういう人は少ない。


行動の連続ではあるし、やりたいことに素直でなければ、そういうことはできない。

しかし、彼ら彼女らは、とても内省的、というか、旅がしたいからしているかというと、それほどシンプルでもないように見えた。


自分探し、というと手垢まみれで、恥ずかしい言葉でさえあるが、旅人は、日本でわからなくなってしまった、自分の生きる意味を模索するうちに、とりあえず世界へ、という感じでやっているひとが多いんじゃないかと感じた。



行動の動機を迷いなく答えられる人には、あこがれもあるが、一方で私は少しいぶかしんでしまう。







なぜ、それを選んだのですか?


そりゃ金のためさ。

長年の夢だったからね。







金のためさ、


親のためさ、


老後のためさ、


夢のためさ、



そういうことを簡単に言うことができない人は、旅にでたり、うつになったり、芸術を志したり、犯罪をしたり、ということになる傾向があると勝手だが想像する。





シンプルな答えに、あきらめ、を感じたり、自分への嘘を自覚したり、そういう傾向が、旅人や、うつのひと、一部のひとにはあると思う。







なぜ、それに、あきらめ、を感じる?

もっと挑戦する自己イメージがあるからだろう。





なぜ、自分へ嘘をついたのだと感じる?

それは、自分との約束があると思っているからだろう。






「おれは、まだ、なにも何も成し遂げていない。」


「10年前のあたしが泣いてる声がする。」




そうやって、かつての自分との約束を果たそうと、まったく疑いようのない、絶対の真実はどこにあるか、と世界へ旅に出る、あるいは、自分の内側の世界をさぐるようになる。





旅人はそういう人間が多いと思う。
うつのひとも。







旅は真実に至るまで、終えられない。


旅には動機がないに違いない。

旅の最中で、絶対に揺るがず、誰からも疑問に思われない、旅の動機が見つかることを、旅人は夢みている。






あるひとは、

この恵まれない人々の生活を救いたい、




またあるひとは、

ヨガを極めたい、




そうやって、そのひとの旅の終わりにたどり着こうとする。














あえて、言ってしまおう。



それは、求めていた絶対の答えではない。









恵まれないひとの助けになろうとする、そうしたいのはなぜ、その土地なのはなぜ、なぜその方法で、なぜ、なぜ、、、


そうやって、自分で自分を問い詰めることができる。


その時どうこたえるのか。






●それは、あきらめ、だと認識する。旅は終わりなのだと。もう、旅してばかりもいられないんだ、と。
そして、何かに身を投じる。あるいは社会へ帰る。それはあきらめから始まる社会への再参加かもしれない。


●過去をねつ造する。
例えば、「小さいころ観たドキュメンタリーが忘れられず、それで。」と、自問するまで、忘れていたような記憶にズームする。今まで、気にも留めていなかった過去のあれこれを、あらためて大きくとりあげ、線で結び、それが自分の夢だったのだ、と語る。

いつだったか、ニュース番組が、超難関中学の合格発表日を取材していた。

「将来は何になるの?」
「弁護士です」
「どうして、弁護士になりたいの?」
「・・・えん罪のひとを助けたいから」

私は酷なシーンだと思った。
その子はゲームにのっただけだと思う。

夢は何か、という不可能性のかたまりのような質問。
その子は、身の回りにえん罪がなかったか探すかもしれない。今後えん罪を探すようになるかもしれない。





●これはやはり、答えではなかったのだ、と旅を延長する。
こうやって、旅それ自体が目的になっていくひとも多いと思われる。自分探しが自分になる、というような構造か。






まるで、否定的な書き方をしてしまった。

決めつけのような解釈でもある。申し訳ないと思う。
旅先でしか見られない、美しい景色や、かけがえのない出会いもあるだろう。

世界は、人間の都合とは無関係に、そこにあるのだけれど。






旅人に対する私の勝手な想像、解釈。

興味深いのは、きっと、この解釈が、うつのひとの、少なくとも一部のひとにはまるまる適用できると思われることだ。



だから、私は旅人にシンパシーをおぼえずにはいられず、許されるなら、彼ら彼女らも私に共感を示してくれた、と言いたい。






ここまでの考察で、ひとまず、結論を出すなら、



うつ、旅、には、

●かつての自分との約束を果たそうとする

●また、絶対の答えを探そうとする、

という共通点がある。



そして、それが、

●旅を終えられない理由になりえ、

●また、うつが治らない理由にもなりうる。









このへんで、終わりにします。














ここからは、蛇足というかそんな感じです。






















旅がうつに良いかどうか、おいそれとは言えない。


急激な環境変化はさける、というのが、治療上のセオリーとも聞く。






ただ、私は思うのだが、世界には、まったく違う価値観で動いている社会やコミュニティがあり、そこに生きる人びとがいる、ということを知るのは、あなたの気を楽にさせる可能性があると思う。



新型うつ、とよばれるような、自分の納得のいかない環境に拒否反応がでる場合、回復を試みても、結局は、時間をおいて、体を休めただけで、魂とそれをとりまく環境はかわっていない。




復帰先がうつにさせる。どうどうめぐりの不治性。




ならば、その環境から逃げることが大切だと思う。


全く別の世界を自分に用意してあげる。



いま、あなたがいるそこだけが、すべてではない。答えが見つからなかったとしても、逃げこんだ先は、答えをさがさなくてもいいという価値観の世界かも知れない。







旅程や金銭的なこと、環境など、具体的になるけれど、


まず、期間は長いほうがいいと思う。

数日では、日本で温泉旅行するのとさしてかわらないかもしれない。



2週間程度だと、旅先になじんでいないので日本の良さが目につくと思う。
実際、日本はすごい。あらゆるインフラの完成度が高く、生活環境の精密さは異常にクオリティが高い。


私自身は2か月ほど経った頃から、物価の相場感覚が身に付き、コミュニケーションの勘所がわかってきたような感覚を得た。


長期間となると、それだけの生活費が要る。

また、滞在先にたよれる医療機関があるかも調べる必要がある。





私自身は、タイ東北部、特にチェンマイに長く滞在したが、物価は安く、月に6~7万あれば、まずまずの生活ができると思う。

タイ式マッサージ、ヨガ、といった身体性の文化も充実しており、スクールなども多いので、習いに通うのもいいと思う。

ベジタリアンレストランなど、タイの食文化だけでなく充実しているし、料理教室もみかける。




なんとなく社会とのつながりを意識させる行為はあったほうが精神衛生にいいのでスクールに通うなどは良いと思うし、なによりも、異国の地で、不自由な言語環境で、身体を観察する、という経験は、ハマる。私はハマった。


バガボンドという漫画の、佐々木小次郎が、聾唖、という設定で、語り合う相手が自分の身体感覚のみで、最強と言われる剣士に育つように、街中に日本語がなく、タイ語もほとんどわからない、必要な英語程度、そういう環境にいると、脳内が静かであることに気づく。





うつを旅先は受け入れてくれるだろうか。



わからない。それは不安だ。




日本人は多い。欧米人も多い。




私は、多少自分を偽って行くぐらいがちょうどいいと思う。


日本に、仕事に、疲れちゃってね、バケーションにきたよ。

そうやって、クラスメイトや、ゲストハウスやどこかで出会う人と話したらいいと思う。

旅人はやさしい。







これは、あくまで、実験的な想像です。



実際に行って、調子が悪くなる場合もあるのかもしれない。

責任はもてない。


けど、まあ、悪くないと正直思っている。



チェンマイの情報なら、多少あるので、気になる人は気軽にきいてください。













ちょっと助長気味BGM





0 件のコメント:

コメントを投稿