精神科に通っていた時期がある。
20代前半から半ばのころだ。
冬が始まろうとしているころだったと思う。明け方の新宿を歩いていた。アルバイトを退勤して、いつもの帰路についていた。
夜は終わろうとしているが、朝が来るまではまだ時間がある、そんな狭間の時間、街は灰色になる。
暗闇ではないが、発色するほどの光がないせいだろう。私はこの時間が好きだった。
ふと、曇った空から、ひとひらの雪が落ちて来るのが見えた。その時だった。
私は、「自分がすでに死んでいる」という強迫的な妄想に襲われた。
「自分はすでに死んでいて、誰からも見えない」
そんなことはあるわけがない、非現実だ、とあたりまえの抵抗をしても、自分が死んでいる、という実感が強すぎて、どうにもならない。
時間にすれば、きっと10分か20分くらいだったろうと思う。
心臓がはみでてしまいそうな動悸と、今にも発狂した行動をとりそうな恐怖、それらをどうにか落ち着けようと抵抗する言葉。鏡だ、まずは自分を確認して、そして発狂した感じではないか、見てみよう、どこか大きいガラスをさがそう、だめだ、今自分をみたら、余計発狂するかもしれない。
そんな狂った時間。
どうやってアパートまで帰ったのか思い出せない。
たびたびそういう発作があった。
あるときは夕暮れ、大きなマンションの廊下に一斉に外灯がともった瞬間。
ある朝、地震だと思って目覚めると自分が震えていることもよくあった。
そうしているうちに、外出がおっくうになった。
友達には恵まれたと思う人生だが、その友達との飲み会に行く気がしない。行ってもヨタ話を繰り返すだけだ、と思う。
当時は学生だったが、喫煙エリアのざわめきや、スロープを行き来する学生の足音が妙に立体的にきこえて、おかしくなりそうだった。
一番致命的なのは、アルバイトだ。
私は、奨学金とアルバイトで、学費、家賃その他生活費をまかなっていたため、アルバイトにいけなくなってしまっては、どうしていいかわからなくなる。
私は極めて朗らかに、医者の友人に電話した。彼は高校の同級生で、浪人やフリーターを経て大学に入った私とは対照的に、まっすぐ医者になり、当時は研修医として様々な科をまわっていた。
彼は電話口で、いつもの口調で笑いながら、医者として一人前ではないことを前置きし、「みきちゃん、それ、うつだよ」と言った。
そっかー、やっぱり、と私は笑って返答し、近所の精神科を調べた。
精神科にかかる、というのはやはり抵抗を感じないわけではなかったが、外出ができない、働けない、というのは、何よりも避けなければならない事態だった。
精神科はやはり、申し訳ないが、独特だった。精神科だった。
電波を受信しているらしいおばあさんや、同年代と思われるおしゃれな女の子がいた。
私は、精神科にかかるにあたって決めたことがあり、それは、対話的なセラピーを希望しない、というものだった。
私は非常に言葉の多い性質で、なんでもかんでも言葉で表現しようとする。
自分を甘やかすことも、自分を欺くことも、自分を貶めることも、すべて言葉でそうしてきた気がする。
言葉の多い者、言葉をよく操る者が、言葉を思い通りに動かせるわけではないと思う。
言葉には、奇妙な自律性があって、気付けば言葉に引っ張られている、そういうものではないかと思う。
だから、私はできるだけフィジカルに、クスリで動けるようになるならそれに越したことはない、動けるようになったらひたすら動いて、考える暇をなくそう、手を動かす作業を増やそう、そう思って、精神科通いを始めた。
医者は症状を尋ねた。若くヒゲの濃そうなイケメンだった。
私は、時々奇妙な発作があること、外出がおっくうであること、動けないことは合理的ではないからクスリでもなんでもいいから動けるようになりたいことなどを伝えた。
医者はいくつか質問をしてきた。
精神科にかかるに当たり、うつ病とかパニック発作など、何か調べたことがあるか。
私は、はい、と答え、wikipediaなどで、調べたと伝えた。
この質問の意図がわかるような気がした。
人は、動けなくなると、動けなくなってしまった正当性をさがすのではないかと思う。
うつ病を怠惰や言い訳だと言うべきではない、と言われているが、私は精神科に通っていた当時も、うつ病は言い訳の病だと考えていた。
例えば、乗らなくてはならないバスがある。それに遅刻してしまう。
バス停に来る途中、クルマにはねられてしまったんだ、私はそう言い訳し、足にギプスを装着する。嘘のギプスだ。
動けない自分にギプスが必要になる。それは、病を探す、という行動になる。
何か調べたか?という医者の質問は、病探しへの慎重さだと思う。
ところで、私は、うつ病の人を、怠惰だ、言い訳だと責めるつもりはない。ギプスで楽になれるなら、それでいいと思うし、誰だって動けないときには休んでいたい。あたりまえだ。
動けないときに、「動けないから休むね」と言えないこと、言っても通用しない世界は呪ってしまっていいとも思う。
他に、質問されたことで覚えているのは、家族に、精神を病んだ人などがいるか、というもの。
私には敬愛するする人がいて、それは祖母なのだが、祖母は自殺未遂をしたことがあった。家出も多く、娘である母も、家出をしたことがあった。
私は、いいえ、と答えた。
精神を病む、ということに何らかの遺伝的な素質や家庭環境が関わっているのかもしれないが、気分的にこの質問には正直に答える気がしなかった。
他には、学生か社会人か、とか、学校では何してる、とか、就職だな、とか、そういう質問をしながら、特定の原因は心当たりがあるか、というようなことをきかれたような気がする。
思い当たるような原因はなかった。
無理矢理に当てはめれば、いくらでもあったのかもしれない。就職はたしかに喜んでしたいタイプではなかったし、家庭は貧乏だった、アルバイトをしながら学校に通い、読みたい本や、弾きたい曲や、行きたい美術展は腐るほどあった。
やりたいこととやりたくないことの天秤のバネが狂っていないと生きられない、そんな感じではあった。
ただ、私は原因探しをしたくなかった。言葉のゲームにとりこまれてしまうように感じられたからだ。
病を探すように、過去に原因を求める。
それは容易に過去をねつ造することにつながる。
あのとき、こうなったから、今こうなっている。
それは、現状肯定に役に立つならいいのだが、負の光が過去から現在を照らし、本当は笑える輝かしい過去が、暗いものになってしまう。
私は過去を振り返るタイプだ。それは過去が美化されているから。美化された過去は、美しいままであってほしい。
だから原因探しはやめた。
それで、医者は、離人の症状が強いね、若い女性なんかがなりやすいみたいだけどね、みたいなことをにこやかに言って、薬を処方してくれた。
もう忘れてしまったが、その日処方されたのは、ジェイゾロフトという薬と、名前を度忘れした、睡眠薬の2種類だった。
うつ病ですね、とは言われなかった。
先の医者の友人に精神科行ってきたよ、これこれのクスリを処方されたよ、と伝えると、「ジェイゾロフトって出たばっかりの新しい薬だよ、薬屋に営業されて使ったのかな」、などと病院の舞台裏を交えてからかってくれた。
医者と患者の信頼関係はもちろん重要だと思う。しかし、どこにだってビジネスは存在する。
ビジネスと美学が相反するわけではないが、もしこの世に「尊厳ある苦しみ」のようなものがあったとしても、医者は患者の死を避けることを第一とするだろう。
尊厳死のために殺人者として裁かれる医者もいる。
医者だって、患者に死なれたくない。そのためには、薬漬けにしてでも生きさせる選択をとることもあるだろう。
医者だって、普通に楽しい生活を送りたい、フツーの人間のひとりだろう。
医者のにこやかな対応が、患者を死なせないための技術で、患者と医者の対話が、死を遠ざけ、問題を棚上げにする、医者ごっこ、患者ごっこだったとして、何の問題もない。
ただ、私はそういうところに長居するには時間が足りない、というか、金が足りない!、そう思ったので、クスリとフィジカルなアプローチで行こうと思ったのだった。
たぶん、今思えば、若くて体力があったし、若いなりの攻撃性というかアッパーな衝動も眠っていたのだと思う。
結果的に1年はかからずに、病院に通う必要もなくなった。
その期間のこともいつか書くかもしれない。
ただ、私の病気に対する姿勢はややへそまがりだし、誰にでも期待できる病気との接し方ではないようにも思う。
実際、鬱になってしまった人は、どういうアプローチをとる人が多いのかな。
病院に通わなくなっても良くなった私に、恋人ができ、その人は長くうつ病を抱えているひとで、そしてつきあって数年経ち、別れた、そんなことを今度書きます。
ではまた。