2013年5月28日火曜日

調子悪い。横になります。





前回は、生きる意味、自意識、うつの不治性について書いた。


今回は、生きる意味、自分らしさについて書く、と予告したけれど、調子悪いです。






棚上げにしていた問題に徐々に触り始めているので、ぐったりです。


その問題に関わる人の中には、私にとって大切な人もいて、その人の誕生日だったりしたので、声をかけたい、声をかけるからには、触れとくべき話題もある、そういう感じで、動いております。


何かに向き合ったからと言って、スッキリするわけでもなく、日常が重くなるだけだったりするけれど、こぎはじめた船は、沈めるか、どこかにたどりつかせるか、そんな感じで、傍観者のように、なるようになれ、と取り組もう、と、思って、います、が、だるいっすね








ここから先は、テーマがそもそも抽象的で、むずかしいので、適宜、私自身の自分語りをさせてもらって、その具体例から、骨組みを取り出す感じで、なにか、書けたらな、と思っています。


が、どうにも疲れて、横になりたいかんじです。







マッサージうけにいきたい。



私はタイ古式マッサージが好きです。


ゆったりしたリズムで、深い圧を、2時間くらい、至福です。


今度、マッサージについても書きます。好きなので。









今夜はこんな感じで失礼します。









おやすみBGM

シガーロス/Glósóli

後半、ややせかすが、このくらいの盛り上がりは好き。


2013年5月26日日曜日

あなたが生きる意味と、アイデンティティの罠




前々回の続きを書けていない。

新型うつ病について思うところを書いて、自分がうつ状態であることを認めるかどうか、をテーマに次回は書く、みたいに予告した。


何を書こうとしたのか。

たぶん、自分が自分をどう見ているか、を書こうとしたのだと思う。



要は、自意識、ということだ。




さらに、それ以前の記事で、インターフェイスのありよう、について書いた。

そこでは、自分と世界、という次元をつなぐインターフェイスが人によって異なると書いた。


例として、ひきこもりのように、インターフェイス(自室のドア、ケータイといったもの)を可能な限り閉鎖していき、その究極は、完全な隔離状態、というか、世界を自分だけにしてしまう。


あるいは、逆方向の究極状態として、インターフェイスを解消し、自分と世界の境界を失くし、自分がいなくなる。自分がいなくなる、というのはイメージがしづらいが、例えば、鏡を見ても映った人物を自分と認識しないとか、他人の経験と自分の経験の区別がない、とか、だいぶすごい状態なのではないかと思う。



で、自意識のありよう、についてだけれど、うつ状態のひと、うつになりがちな人、というのは、自意識が強いのだろうと思う。



自意識過剰、というやつ。

自意識過剰、という言葉は、どこか一人歩きしていて、使いづらい言葉だ。



例えば、鏡ばかり見て、髪型をよくチェックする人なんかを、自分好きだねー、自意識過剰なんじゃないの? みたいに使う。



しかし、私は思うのだけど、自分が好き、というひとだけが自意識過剰なのではない。


自分が嫌い、自分なんか消えてしまえばいい、そういうことを言う、一見すると謙虚とも思えるひとも、自意識過剰なのだと思う。



なぜなら、好き、というプラス方向か、嫌い、というマイナス方向かの違いはあれど、自分に執着している度合が強い、という意味では一緒だから。


数値で言うなら、絶対値が大きいという意味で、同じなのだと思う。


自意識過剰というのは、自己執着の度合が強い、ということだと思う。

自分が好きか嫌いかは関係がない。




自分が好きで好きで、周囲から煙たがられるようなひとも、自分が嫌いで嫌いで死んでしまいたいという、謙虚に思われるひとも、ある意味では、等しく、エゴが強いのだと思う。




エゴが強いことを非難したいわけではない。

私自身はどちらか言うと、エゴが強くて自己評価の高いひとが好きだ。


あまりに身勝手な振る舞いが、私のデメリットになるようだと困るかもしれないが、言いたいことを言い、やりたいことを我慢しない、そんなエネルギッシュなひとと一緒にいると、こちらまで元気になってくる。

それは、私たちを縛る、決まり事や、社会の矛盾や、私たちの元気を奪う物事に対して、風穴を開けるような、ぶち壊してくれるような、そういうエネルギーを感じるからだと思う。





自意識が強いこと、エゴが強いこと、それ自体に良い悪いはないと思う。それはある種のエネルギーのようなもので、それがどこに向くかの問題。

毒にも薬にもなる物質があるようなもの。





ただ、自意識の強さと、うつ、はかなり関係が強いと思う。



アイデンティティ、という考え方を例に考えてみる。この言葉もかなり使われる言葉だ。

自己同一性、などと訳される。




自分が自分であること。

確固たる自分。





そういう意味で使われる言葉。


一見すると、立派な感じがする。





だけど、私はこれほど迷惑な概念もないと思う。




例えば、過去を振り返ってみる。

自分が歩んできた人生には、大なり小なり、選択をせまられる分岐点があったと思う。

その都度、どちらかを選んで今に至る。



強い意志を持って選んだ選択もあるだろうし、そういう道筋を「選択と決断の連続だった」と豪語するひともいるだろう。


あるいは、他人や時間に流されるように、選んできたひともいると思う。





そして、それらの分岐点を、過去から現在に向かって、線で結んでいく。


この線が、アイデンティティだ。



「私に意志などはなかった。ただ流されるがままの、一貫性のない曲線だ」

その場合、選択肢に対して、意思をもたない、という一貫性がアイデンティティ、ということもできるかもしれない。





この、線、一貫性、ここに、罠がある感じがする。




過去から現在までの分岐点を結ぶ直線は、やがて、現在を追い越し、未来にむかって、伸びていく。


これから、将来迫られる選択肢の前で、どちらを選ぶかは、過去からのびる線が決める。


つまり、その選択が、今までそうしてきた、「私らしさ」だからだ。


逆に言うと、「私らしくない」、選択肢を選びづらい、ということ。


また、私らしさを意識することは、自己に執着すること、過剰な自意識を持つことになる。






ここで逃げるなんて、私らしくない。


私らしい仕事ってなんだろう。


そもそも私ってなんだろう。


私は何がしたいんだろう。


私の人生って、本当に私の人生だろうか。




こういった疑問は、人生に、自分に、真摯であろうとするほど、深みにはまってしまうと思う。






例えば、嫌な仕事から逃げたくて、嘘にせよ、本当にせよ、体を壊したとする。






自問してみる。



なぜ、仕事が嫌だったのか。





自答してみる。



その仕事は、替えがきく。

私でなくてもいい。

つまり、私は取り替え可能な存在。

私はこういうことをして過ごすために生まれてきたのだろうか。

そもそも私は、何のために生まれてきたのだろうか。






そうすると、体を休めても、復帰する先は、私が生まれてきた意味を無視している。

結局、体を休めても、魂は納得しない。


そう、魂が納得してくれない。




人は、なぜ、自分らしさを求めるのか。




今回は、自分らしさを求めてしまった結果、魂が納得しないところでは、生きていけなくなってしまう、ということについて書きました。


次回は、自分らしさ、自分が生きる意味、について考えてみようと思います。






では、また。













今回は、重いテーマを扱ってしまいましたが、普遍的で、共感してくれるひとも多いのではないかと思うんです。

口直しになるようなBGMはあるのかな。

口直しではなくて、生きる意味を探ろうとする、そういう作品はいっぱいあると思うけど。

たぶん、音楽に限らず、ある種の芸術は、生きる意味を考えるその過程で生まれたりすると思うから。







今日の記事の口直しBGM、思いつかず。

なんかひきずるテーマだから。









この気分を助長するBGMならたくさんありそうだけど。

誰にも、きっと、そういう曲があるのではないでしょうか。







私は、どの曲をかけようかな。





















ちょっと青臭すぎて照れる選曲になるので言い訳しておく。

選曲の理由についてだけど、歌詞。




”PKを決めて英雄だったあいつが、今じゃ、ちっちゃな町の郵便屋さんさ”

”とてもしあわせなはずなのに、なぜだか、なんでか、涙が出るよ”

”ああ、僕は、何か、やらかしみてみたい…”




これは、明らかに、生きる意味を問うて、「君、それでいいの?魂は納得しているの?」という態度で歌われている。

そして、僕は、僕にしかできないことをやらかせないか、と。



生きる意味をテーマに作品をつくるアーティストは多いが、そういったテーマは作品内で表現されている。
アーティストなのだから作品勝負。当然だ。



しかし、このバンドは、自分たちの「信者」となったオーディエンスに対して、「僕は、君の生きる意味ではない。君の生きる意味を見つけてあげられるわけでもない」そういう態度をとろうとする。


つまり、作品の外でも、テーマをひきずっているということになる。



その結果、と言っていいかわからないが、このバンドは活動が滞っているようだ。

音楽性というよりも、活動する姿勢において重要なバンドであるとは思うのだが、抱えているテーマが重かったようだ。






助長BGM





銀杏BOYZ/青春時代

※記事内のプレーヤーで動画が再生されない場合は、プレーヤーの「youtube」をクリックすると、youtube本サイトで再生されるはずです。

躁、うつ、買い物の関係




今回は、前回の続きで自らのうつを認めるかどうか、という内容になるつもりなんだけど、どういうことを書こうとしていたか、なんかわからなくなってしまった。



おしまい




アイデアを忘れてしまったのか、そもそもノープランだったのか、それすらわからない。
書いてるときは、頭の中が、それなりのテンションをもっているので、なんとなく書けるような気がしているのだけど、時間を置くとその時の状態に戻れない。

ちょっと適当なことを書いて、ワンクッション置きます。


そもそも、このブログは1記事あたりの文字が多くて、読む人に負担だと思われる。

振り返ってみると、私自身、調子が悪かった時期は、本が読めなかった。
本来は活字好きで、何かしらの本を読んでいるのが日常だったのだが、まったく読む気がしなかった。


とはいえ、始めたばかりのブログで、できるだけ早いうちに、コンテンツを充実させておきたいな、とも思うので、とりあえず、たくさん書くつもりです。


もし、内容に興味を持ってくださっていて、しかし、読むのが負担だという人、ごめんなさい。調子いい時に、読んでもらえたらと思います。

また、できるだけ定期的に、ダイジェスト版、みたいな、そういう記事を作成するつもりです。たぶん。





我ながら、なんの目的があって、こういうブログを書いているのか、と思う。


動機、というのは、私の大好物的なテーマなので、そのうち書きます。


今のところは、ただ、単純に、精神的不安定なところがあるので、つながりを求めた、あるいは、手を動かす作業を生活に取り入れて、嫌なことから遠ざかるため、そういう自己都合です。

ただし、書くものは読まれるもの、というスタンスなので、書くからには、読まれるに値するものを目指したいですけれど。





ところで、個人的なことなのだけど、今の季節は私は躁になる傾向がある。

特に医者に相談したわけでもないし、基本的に動ける状態ではあるので、ひどく困るわけでもない。

私の躁状態、というのがどういう状態かと言うと。




歩く速度が速い。やや前傾で歩く。

頭が言葉でいっぱいになる(ような気がする)、脳内で処理するのがもどかしい感覚が続くと、ふとしたときに、独り言として口から考え事が漏れ出る。

街中で、気になるものを目にとめると、突っ込みを入れたい感じになる(口を突いて出ることもある)。

大きい買い物をする。




特に興味深いのが、「買い物」。


家計簿などをマメにつけていないので、参照できるのは、通販のログなのだけど、よく利用する、例えば、amazon、楽器の通販、書籍の中古通販、などの過去のショッピング履歴を検索してみると、明らかに、6月前後に買い物が偏っている。


元気だから買い物をするのか、買い物をするから元気になるのか、お金のめぐり方の問題なのか、結論はまだ出せないけど、自分の調子と買い物、あるいはお金の出入りとの相関は、興味深い結果があるかもしれないので、家計簿をつける方は、チェックしてみてもいいのではないでしょうか。



私の場合、買い物がストレス解消になっているのは間違いないとは思います。

必ずしも、高価なものや、ずっと欲しかったものを買う、といった買い物である必要はなく、例えば、100円ショップで、こまごまと、普段は買わないようなグッズを買ったり、というような時というのは、元気か、ストレスフルかはともかく、普段とは精神状態が違うときである、そういう傾向が私にはあります。




では、また。









口直しのBGM

なんか、静謐,それでいて、ポップ、曲も声も、表情が良く変わる、しかし、その人。
そんな感じ?




レジーナ・スペクター/small town moon


2013年5月25日土曜日

病気が真実か嘘かはどちらでもよい。




前々回、新型うつは治らない、ということを書いた。前半では、自分と世界のインターフェイスについて書いた。

前回は、本ブログの『the good life』というタイトルについて私の過去を書いた。


あいかわらず、構成のよくわからないブログになっていて、かといって、日々の日記でもない。

もうちょっとうまくまとめられないかと思う。そのうち、考えをコンパクトにまとめてみたいのだけど。


で、新型うつは治らない、とかインターフェイスとか、自分語りとか、一応私の中では関連が強いのだけど、それをわかりやすく書けるだろうか。



構成、というと大げさだけど、順番かな。


どういう順序で書くといいのかな。



新型うつ、から書き始めて、精神を病むことの症例というか、ある特徴としての自分語り、あるいは、自分語りが示す人間性とうつの関連、そんで、その対処のヒントとして、インターフェイスの話題。


みたいな感じだろうか。


でも、そもそも、新型うつ、というのをどう扱ってよいかわからない。
よく言われる概要は知っている。



嫌なことに対すると症状が出る。そうでないときは大丈夫。とか。



私は以前の記事でも書いたが、精神科に通った。
診断当初は、特に何も病名などは言われなかった。

病気と名付けることにひそむ罠のようなものがあるのではないか、とも書いた。



その後、通院を続けているうちに、当時通っていた大学に、通院したとか何か申請すると、医療費が負担される制度がある、と言うのを聞いて、貧乏学生の私はさっそくそれを実行した。


そこで問題、というか、病院側には大学提出用の書類を書いてもらうのだが、診断名を書く欄があった。

私は何でもよかったのだが、確かに、なんと書くつもりだろうあの先生は、と少し興味深かった。


経過報告と、薬の微調整をし、待合室で会計と書類の受け渡しを待っていると、再び診察室に呼ばれた。


医師は、あくまでも、便宜上書かなくてはならないから「うつ病」と書きますが、気にしないでください、というようなことを言った。



私は薬で結構調子が良くなっていたし、病名をはじめ、言葉で病気へアプローチしないと決めていたので、病名は何でもいい、気にしない、と答えた。






「あなたはうつ病です」という宣告に、どういう問題が起こりうるだろうか、と想像してみる。







自分をガチガチに縛って歯を食いしばって、胸を押さえながら、生活してきたガンガンにうつだった人は、「うつかよ、もうだめだ」と、バッタリ倒れるかもしれない。


これとは実は近いような、紙一重のような気もするのだが、逆に、「これで休める」と倒れる人もいるかもしれない。





ちょっと、斜めに想像してみる。


「うつかよ、もうだめだ」と言いながら、内心で「これで休める」「これで診断書ゲット」という人もいるかもしれない。


そして、薬は確かに効く、しかし、元気になって活動しなくてはならないことや、場所は、その人を疲弊させた原因のような場所。

これまでに休んだ気まずさや、ブランクを取り戻さなくてはならない不安も大きい。

休む理由が欲しくなる、それを探す、なんだか頭痛がする、薬の説明には「頭痛が出る場合がある」と書いてある、これは薬が合っていない、病院へ行こう、まだだめみたいだ。







仮病とか詐病とか、本当に苦しい、とかその違いはこの際重要視しない。



そこは本人にしか知りえない領域で、病気のフリをせざるをえない孤独だって苦痛だろうし、本当に苦しいのに嘘だと思われ理解してもらえない苦痛もあるだろう、けれど、それは計りようのないもので、逆に、苦痛を誰かに理解してもらえている、ということだって証明不可能なわけで、「あなたのつらさは理解できる。ゆっくり休んでね」と言う人の本心は疑ってしまえばいくらでも疑える。




嘘か本当か、みたいなゲームをここに持ち込んではきりがない。


ジョーカーとそうでないカードを、裏向きに2枚出されて、ババはどっちだ?と言われても、答えは出ない。
相手が、こっちがジョーカーだよ、と言っても、裏をかいて、いやいや、裏のまた裏で、と無限に疑うことができる。



これが、病気の症状を見極めるゲームだったら最悪だと思う。



本当なのだと言いたい人は、いかに信じてもらえるかと、具合を悪く見せなければならない。

信じてもらうことに疲れてしまえば、孤独に闘病するより他ない。


特に、本当にギリギリの人や、器質性のうつなどをかかえている人が、この「うつ病ゲーム」に巻き込まれてしまうことは、かなり危険だと思う。


本当か?本当だ。
そうやって、病気を大盛りにしたり、あるいは、無理矢理健康を装ったり。

そうやって、適切な治療や必要な環境から遠ざかってしまうからだ。




だから、私は、うつ病をはじめ、精神を病んだ状態の人にとって、仮病、詐病、真実、嘘、そういう見極めは必要ないと思う。(医者には重要なことだと思うが)



ではどう考えればいいのか。



新型うつにせよ、うつにせよ、仮病にせよ、共通しているのは、「休息を必要としている」という部分だと思う。


とりあえずこれを前提にして考えてみたい。



話を分かりやすくするために(わかりやすくなるかな?)、「個人」と「社会」と次元を2つに分けてみる。




まず、「休息を必要としている」という前提の状況を、社会が認めるかどうか、個人(その人自身)が認めるかどうか。
とりあえず4通りある。

A:社会が認め、個人も認める。

B:社会が認め、個人は認めない。

C:社会が認めず、個人は認める。

D:社会が認めず、個人も認めない。




A:休むことができる。基本的に状況は悪くない。

ただし、復帰した先が原因である場合の、新型うつは、解決には至らない可能性がある。
個人がどこまで認めるかにもよるが、社会福祉のサービスを受ける場合もあるかもしれない。




B:Aの応用形に感じられる。というのも、新型うつの場合、治った先に問題があるので、この状態にある個人は、治った後を先回りしている可能性があるかもしれない。

自分に厳しい、などのパーソナリティによるのであれば、医師の適切な対処や、自分をかえりみる必要があるかもしれない。回復することを目標とするのに、この態度はあまり合理的ではないので、もしかすると、治りたくないと感じているのかもしれない。その場合は、自覚の薄い、Aの応用形かもしれない。




C:休みにくい。このパターンの1つなのかもしれないが、個人と社会のギャップを埋める闘争、と言う形で、裁判でたたかうひともいるようだ。それはそれで、良いと思う。社会の側が認めれば、Aの状況になる。

ただし、私自身は個人レベルでの対処策を考えていきたいので、社会福祉や労組、裁判といった話題にはあまり触れないと思う。そういうのがきらいだとかいうわけではなく、スピードの問題で、根気強い活動が必要になるかもしれず、価値観の違うものとのやり取りはそれだけでストレスだし、相手が用意した枠内に、自分を譲歩させる必要もあるかもしれない。妥協は必要かもしれないが、相手の理解できる枠内で生きなければならない、というのはなかなかつらいというか、振出しに戻る、という感じがしなくもない。

所属する社会が合わない、という考えがあるなら、その先を具体的にイメージしたいところ。



D:絶望的。だが、これはこれで、あり、だとも思う。その個人がどこまで動いていられるか、という問題になってしまうが。

絶望的ではあるが、実は、この状況で、日常を送る人は相当いるのではないかと思う。はた目には、疲れた社会人、あるいは学生。その実、とっくに体は煙を吹き出し、精神は悲鳴を上げている。なんとか、ぎりぎりの癒しで、動いている。







分類をしてみたが、意味はあっただろうか。


まず、社会の側が、認めるかどうかは、こちらでは決められない。


そして、認めさせたい、と思うときには、基本的に、個人レベルでは認めている、という状況になると思う。
(社会福祉的なマインドの強い人や、誰かのためにと思う自覚の薄いD状況の人が活動するパターンはあると思う)



ということで、とりあえず、問題を個人が認めるかどうか、というところで考えてみたいと思う。




それでは、また。








口直しの音楽は何にしよう。

週末で、昼にパソコンに向かっていたので、昼下がり的なやつ。それで、ちょっと、けだるい曲。




キリンジ/エイリアンズ

ブログのネーミングと自分語り。




なんだか、前回はギトギト書いてしまった感じがしたので、一旦、調子を変えようかな、と思った。


それで、この本ブログのタイトル『the good life』というネーミングについて。


なんというか、けっこう、ギリギリな感じがする、イタイ?みたいな、そんな危惧は我ながらある。

そういう歌謡曲ってあるじゃないですか、『FOREVER~永遠~』みたいな、そういうタイトル。



weezerというアメリカのバンドがいて、『the good life』と言う曲がある。



特別に好きかと言われると、強くはうなづけない。好きだけど。




話は、うだつの上がらないフリーターをしていた二十歳ごろにさかのぼる。

私は東京の西の方で,フリーターをしていた。働くのはいやだった。行きたい美術展やライブがあって、そのためには働かなくてはならなかったが、働いていると本を読む時間が足りなくなる、と憤り、親しい友人たちは皆、大学生か予備校生で、平日の昼間でも休日の深夜でも遊びの誘いがくる。

びっちり働いて、スッカスカに休む、というリズムで生活していた気がする。とはいえ、そんなシフトを許す都合のいい会社があるわけもなく、登録制のアルバイトなんかをしていたが、望むとおりに仕事が来るわけでもない。私は常に困窮していた。





目覚めると、アパートは金色の夕日で満たされている。

あぁ、今日が終わってしまう。

それでも、どこかのんきで、金がない以外はそれほどつらい気分でもなかった。

夕焼けを見ながら、コーヒーをドリップし、壁が薄すぎてゆがんでいる部屋に大音量で音楽をかける。

何か食い物があれば、それを口にする。

たいていは、ホワイトチョコデニッシュ、あるいは、納豆と卵、金がなければ、何もない。

それから、チャリンコで駅ビルまでいき、閉店まで立ち読みと試聴を続ける。

金があれば吉野家の並にショウガをごっそり乗せて食す。金がなければ、何も食わない。

ブックオフで閉店まで立ち読みと物色を続け、100円の本を一冊ほとんど毎日買った。

それからアパートまで帰り、明け方まで本を読む。空腹に耐えかねるときは、カロリーの高いカップ焼きそばなどを食す。

コーヒーをいれ、しこって、目ざましテレビを観て、朝寝る。

目覚めると、また夕方。

繰り返し。





暗くて金がなくて、何もしなかった。後悔すべき時間だと思う。

だけど、暗かったが、どこか透き通った感じのする時間だった。



そんな日々、ともに過ごした友人にカネダがいる。


彼は高校の同級生で、予備校で京都大学を目指しながら、いつでもプロ野球選手になれるようにと公園でトレーニングを積む超人だったが、本当は超人ではなくて、私の友人に過ぎず、受験勉強をさぼって遊んだり、私が彼の予備校の講義にもぐったりもした。


希望と現実、というおそろしく基本的な板挟みを感じる時期に過ごす友人というのは、どこか特別な感じがする。


カネダは、京大も慶応も落ち、東北の大学へ進学することにした。


予備校の寮を出たカネダは、都落ちを控えた数日、私のアパートに寝泊まりした。




カネダ、2000円貸してくれ。

いいよ。どうした?

この金で、メシ食いに行こう。

ギャハハ


そういう日々も終わる。



私は東京駅まで彼を見送った。

「世話になったな」

彼はそう言った。

「おれも」

私たちは、抱擁も握手もせず、そんなことをつぶやいて静かに別れた。


私は男がするさびしい表情というものを初めて見た気がしたし、私もそういう顔をしているような気がした。



私には金がなく、所持金では立川まで帰れそうになかった。私は、ホット缶コーヒーを買った。

残金では荻窪まで。



それでよかった。

荻窪に着くと、すでに缶コーヒーは暖かくなかったが、その夜はずいぶんと気温が高く、私は立川まで歩き出した。

次の入金のあてがあった記憶はない。

グッドウィルやフルキャストから現場の指示が来たら、前夜からチャリかなんかでいけばいい。

そんな気丈なことを考えて歩いた。

カネダを見送った後で、暗いことを考えたくなかった。

分厚いパーカーは汗がにじむほどだったが、ポケットのコーヒーは気温よりも冷たい感じがした。

夏にはどこか旅行でも行けたら、とか、カネダの抜けたドラムにオオキを入れるのはいいが、今度会ったら、誰が何を担当するのか、とか、自分も大学に行きたいな、とか、とりとめなく、考え事をして歩いた。


国分寺を過ぎたころだった。

コンビニや寄り道を経て、すでに深夜だった。

桜並木の街道があって、満開だった。

はじめて、桜を見た、そんな気がした。

金がないので我慢していた、残り少ないタバコを吸い、また歩き出した。

私は、鼻唄をうたっていた。


ふと、その唄がさっきから頭で鳴りつづけていたことに気づいた。

そして、それは、誰のものでもない、初めて聴く曲だった。


私は、うわさには聞いていた、メロディが降ってくる、という現象に酔った。本当は降っていないが。

忘れたくなかった。

何度も反復し、水をなみなみとたたえたグラスを運ぶように、アパートまで歩いた。

カネダを見送ったことなど忘れていた。

帰り着くころには完全に覚えていたが、記録しておきたいと思った。

ギターでコードをつけ、それをノートに書いた。


弾いてみるとそれは、weezerの『the good life』にそっくりだった。




完全なオリジナルだろうが、パクリだろうが、明日の金にはならない。




いつもの明け方に戻った。




カネダは実家についただろうか。


ケータイには彼からのメールが来ていた。


タイトルは「バター」

本文には、見送らせて悪かったな、夏には遊びに行くよ、などと書かれていた。


バターの意味が全く分からなかった。


朝方、空腹に耐えかね、冷蔵庫をあけると、卵と梅干とマヨネーズとバターがあった。


私は、バターを手に取った。紙箱から、1万円札がのぞいていた。


私は、なんら有効利用、ということもなく、感謝と安堵と空腹でコンビニに駆け込み、弁当とタバコを買い、やがてその1万円がなくなるまで、働きもせず、毎日を繰り返した。



その日々を後悔はしないが、成長しただろうか、と心配になる。




『the good life』はそういう感じで、ブログの名前に使いました。







情報を喚起する音楽もあるし、精神がリセットされるような音楽もありますよね。





2013年5月24日金曜日

新型うつは治らない、ような気がするので




現在、いやなことを棚上げにしている。

いやなこと、というのはお金に関わっていて、棚上げ、というのはケータイの着信無視。

我ながら最悪だが、心が決まらなくて、電話に触れることさえいやだ。



電話、あるいは、インターホン、といった外部とのインターフェイスは一度悪循環に陥ると恐怖の窓口でしかない。

良い知らせや、素敵な来訪だって同じところからやってくるのに。



インターフェイスについて、もう少し考えてみる。

私の理解だと、ある世界とある世界の境界にあたるもの。


パソコンの画面は、ネットと私を。

水面の向こうの犬がくわえている肉を欲して吠えたら、自分の肉がなくなってしまったわんちゃんにとっては、水面がインターフェイスだと言ってよいと思う。

あなたが、今、自室でこれを読んでいるとして、窓や、ドアの鍵もそれにあたるかもしれない。




村上龍の小説で、自室の窓に目張りをしてひきこもる青年が、その目張りの紙をくりぬき外部をのぞくことで物語が動き出す話があった。
(作品名がなんだったか自信がない。たぶん『最後の家族』)

解説の精神科医が(斉藤学か斉藤環)、「おなじくひきこもりを取り上げた『共生虫』のひきこもりの人物像には無理があったが、今回は実態とかい離していない。しいて言えば、目張りに穴を開けることもないだろう、というところだが、物語の駆動装置として致し方あるまい」、みたいなことを言っていた。


インターフェイスのありようは、人によって全く違うということになるのだと思う。



仮に、インターフェイスの強度?透明度?アクセス可能性?みたいなのを単純に数値化して、数直線にしてみる。


引きこもる人のように、なんぴとたりともアクセスさせない、厳重で、光を通さない、そういう状態をとりあえず、「100」とする。もはやインターフェイスとは呼べないかもしれないが。


では、逆に、もう一方の極北、「-100」はどういう状態だろう。
オールオッケー、超ウェルカム、というのではせいぜい、「-50」くらいかと思う。

たぶん、「自分がない」という状態ではないだろうか。

自分と他人の区別がない。次元が別れていない。自意識がない。

これもまた、インターフェイスとは呼べない、というか、ない。





なんで、私はこんなことを書いているのだろうか。





例によって、結論とか、ないです。

でも、こういうふうに物事にアプローチしていると、なんとなく、世界が見えやすくなるような、そんな感じがするんです、私の場合。

そうすると、なんとなく、自分のことも、これまでより整理して考えられる。


そういう人はじつは結構多いような気がする。




なんか、攻撃的なことを言いたいわけではないけれど、うつ病をとりまく環境って、馴れ合いか偏見のどちらかに偏ってしまっている気がして、気持ち悪いときがある。


薬の名前とか、脳内化学物質の名前とかを羅列する専門家や、耳触りのいい同じことを繰り返し言う民間のカウンセラー、とかアプローチはいろいろ。



ところで、うつへのアプローチそれ自体の自由度ってどんなもんなんだろう。



間違うと死んでしまう、だから、クスリ、みたいな感じで画一的なのかな。

クスリが合う合わない、とかはあるだろうけど、「死なせないために脳内物質をいじる」と言う意味では同じこと。


「無理しちゃだめだよ、ゆっくりね」
みたいにひたすら安静を促す言葉をかける、とか。





なんかもっと、うつへの対し方それ自体が人生、みたいな感じで、「えっ、そこで、それ?」みたいな大間違いなアプローチする人とかいないのかな。






なんかふざけたこと言ってるみたいで悪いけど、くそつまらない社会のゲームに適応不全起こすような、お笑い感性するどい不適合者が、いざ治療の段になると、治療ゲームみたいな感じになって、ツッコミもないのはなんなんだろう、そんな風に思えたことがある。



社会性や心理、人間関係といったものとは無関係に発症する器質的なうつもあると思うのですが、それこそ、薬飲んで寝れば治るんではないかと思う。林公一という精神科医がそんなことを言っていたような気がする。

私自身も、たぶん、器質的な、脳の問題だったのだと思う。薬飲んでいたら良くなった。




問題は、新型うつ、とか言われる方だと思う。



誤解を恐れずに言えば、私は、これは、治らない病気だと思う。

治ることが害である、みたいなメカニズムを持つ印象を受ける。




※急にお詫び※

勝手なことばかり言って申し訳なく思います。
そう言える根拠を出せと言われてもありません。うつの人との関わりの経験についてはいつか書きます。
ただし、経験があるからそれを根拠にモノが言える、というスタンスがあまり好きではありません。
まるで、震災経験者しか命を語れない、みたいな感じがするし、経験さえあれば好きにモノを言える、という傲慢さに通じる気もするし、何より、根拠がなくても経験がなくても、考える自由がある、という状態を尊重したいのです。






なんで、新型うつ病が治らないというのかは、またあらためて書きたいと思う。

新型うつの定義もなんかむずかしい感じがするから、きっかりと何か言えるわけではないけど、「治す治さない」、という考え方ではなく、「発症させない」、というアプローチでいくのはどうだろう、という感じがする。



どうやれば発症しないのか、次回、無理矢理書いてみます。





今後、考え方が変わるかもしれないし、このブログは考えを進化させるためのたたき台のような感じで書いています。

考えがまとまったりしたら、まとめ記事とかも書くようにしたいと思います。



では、また。











口直しミュージックは何にしようかな。







彼女をさがさない





詳しくはないのだけど、風水だったか、そういうやつで、水周りの滞りは気の滞り、みたいに言うのを聞いたことがある。

さっき洗い物をしていると、キッチンの水が流れずシンクに水が溜まり、なんだか、あーあ、という気分になり、ため息を吐いて、今はコーヒーを飲んでいる。

今週は明日仕事すれば休み。そんなことを考えながらこれを書いてる。




ここまで書いた文章から、触発されて、広げたい話題がすでに3つはある。
こうやって、言葉は語るほどに、終着点をうしなって、拡散していくのだな。



冒頭に書いたことから触発された話題。

①「水周りの滞りは気の滞り」みたいなことを言われると、それに自分を当てはめてしまう、そういうメカニズムについて。


②コーヒー。うつになるとコーヒーが飲めなくなる。と聞いたことがあるけど、私自身の経験に照らして言うと、たしかにそうだった。


③明日は仕事。そう、「うつと仕事」って強烈なテーマだと思う。うつと経済。とか、うつとお金、でもいい。





こうやって、トピックをできるだけ整理しないと、ブログを始めてみて、どうも私のブログはまとまりがないし、読む方も疲れるだろうし、わたし自身の負担にもなりそうに感じた。


だから、思いついたときにはトピックを整理しておいて、後日の記事にしたり、そういう工夫をしようと思ったのでした。





ところで、前回の最後に、うつがよくなった後うつの彼女ができた、と書いた。

そのことについて書いてみようと思ったのだけど、そう簡単に書くことはできそうにないし、何を書いていいのかわからないし、彼女のプライバシーは、という問題もある。


そして、あなたのこと、書いていい?と聞くことは、むずかしい。


彼女は今どこにいるのだろう。

実家にいるのかな、大阪に出るあてがある、と言っていたこともあった。

彼女のメールアドレスはまだ、通じるのかな。


だけど、私は、彼女に連絡をつけようと思うことができない。

どこかで、彼女がもういないのではないか、という恐怖を抱いているのだろうか。

逆に、なんのために、彼女と連絡をつける必要があるのか、とも正直思う。

彼女とやり直そうとは、思わないし、今後そういう気持ちになることもないと思う。

きっと私は彼女をさがさない。


だけど、どこかで、彼女の今の姿を、こっそり、のぞき見ることはできないだろうか、と思うことがある。

元気であるなら、言うことはない。

誰か頼れる人と一緒だろうか。

部屋で一人、ぼんやりと、私の知っているよりも老けてしまった姿で、孤独にしているのだろうか。

病院のベッドにいるのだろうか。


正直、どれでもいい。

ときどき、気になる。気になるけど、答えはなんでもいい。どこかにいるなら、それで。



私自身のことを、彼女にのぞいてほしいと、私は望むだろうか。

おそらく、答えはイエス。だから、こうやって、特定の人が読めば、私だと特定できてしまうブログを書いているのだとも思う。




今回はこんな感じで。

ではまた。




あ、そういえば、私は、なんらかの作業中にBGMはかけたりかけなかったりなんだけど、同じ音楽を聴きながら、読んでもらう、みたいなことできるかな、とか、おしつけがましいことを考えて、だけど、私の文章は、どうにも抽象的で、硬質なので、読む最中にはどんなのが合うのかまだよくわからない。



とりあえず、読後の口直しのBGM





2013年5月23日木曜日

やりたいこととやりたくないことの天秤のバネが狂っていないと生きられない







精神科に通っていた時期がある。
20代前半から半ばのころだ。


冬が始まろうとしているころだったと思う。明け方の新宿を歩いていた。アルバイトを退勤して、いつもの帰路についていた。

夜は終わろうとしているが、朝が来るまではまだ時間がある、そんな狭間の時間、街は灰色になる。

暗闇ではないが、発色するほどの光がないせいだろう。私はこの時間が好きだった。


ふと、曇った空から、ひとひらの雪が落ちて来るのが見えた。その時だった。



私は、「自分がすでに死んでいる」という強迫的な妄想に襲われた。



「自分はすでに死んでいて、誰からも見えない」




そんなことはあるわけがない、非現実だ、とあたりまえの抵抗をしても、自分が死んでいる、という実感が強すぎて、どうにもならない。


時間にすれば、きっと10分か20分くらいだったろうと思う。

心臓がはみでてしまいそうな動悸と、今にも発狂した行動をとりそうな恐怖、それらをどうにか落ち着けようと抵抗する言葉。鏡だ、まずは自分を確認して、そして発狂した感じではないか、見てみよう、どこか大きいガラスをさがそう、だめだ、今自分をみたら、余計発狂するかもしれない。

そんな狂った時間。

どうやってアパートまで帰ったのか思い出せない。


たびたびそういう発作があった。


あるときは夕暮れ、大きなマンションの廊下に一斉に外灯がともった瞬間。

ある朝、地震だと思って目覚めると自分が震えていることもよくあった。



そうしているうちに、外出がおっくうになった。


友達には恵まれたと思う人生だが、その友達との飲み会に行く気がしない。行ってもヨタ話を繰り返すだけだ、と思う。


当時は学生だったが、喫煙エリアのざわめきや、スロープを行き来する学生の足音が妙に立体的にきこえて、おかしくなりそうだった。


一番致命的なのは、アルバイトだ。

私は、奨学金とアルバイトで、学費、家賃その他生活費をまかなっていたため、アルバイトにいけなくなってしまっては、どうしていいかわからなくなる。


私は極めて朗らかに、医者の友人に電話した。彼は高校の同級生で、浪人やフリーターを経て大学に入った私とは対照的に、まっすぐ医者になり、当時は研修医として様々な科をまわっていた。


彼は電話口で、いつもの口調で笑いながら、医者として一人前ではないことを前置きし、「みきちゃん、それ、うつだよ」と言った。


そっかー、やっぱり、と私は笑って返答し、近所の精神科を調べた。


精神科にかかる、というのはやはり抵抗を感じないわけではなかったが、外出ができない、働けない、というのは、何よりも避けなければならない事態だった。

精神科はやはり、申し訳ないが、独特だった。精神科だった。

電波を受信しているらしいおばあさんや、同年代と思われるおしゃれな女の子がいた。




私は、精神科にかかるにあたって決めたことがあり、それは、対話的なセラピーを希望しない、というものだった。


私は非常に言葉の多い性質で、なんでもかんでも言葉で表現しようとする。

自分を甘やかすことも、自分を欺くことも、自分を貶めることも、すべて言葉でそうしてきた気がする。

言葉の多い者、言葉をよく操る者が、言葉を思い通りに動かせるわけではないと思う。
言葉には、奇妙な自律性があって、気付けば言葉に引っ張られている、そういうものではないかと思う。



だから、私はできるだけフィジカルに、クスリで動けるようになるならそれに越したことはない、動けるようになったらひたすら動いて、考える暇をなくそう、手を動かす作業を増やそう、そう思って、精神科通いを始めた。



医者は症状を尋ねた。若くヒゲの濃そうなイケメンだった。

私は、時々奇妙な発作があること、外出がおっくうであること、動けないことは合理的ではないからクスリでもなんでもいいから動けるようになりたいことなどを伝えた。


医者はいくつか質問をしてきた。


精神科にかかるに当たり、うつ病とかパニック発作など、何か調べたことがあるか。


私は、はい、と答え、wikipediaなどで、調べたと伝えた。
この質問の意図がわかるような気がした。



人は、動けなくなると、動けなくなってしまった正当性をさがすのではないかと思う。

うつ病を怠惰や言い訳だと言うべきではない、と言われているが、私は精神科に通っていた当時も、うつ病は言い訳の病だと考えていた。


例えば、乗らなくてはならないバスがある。それに遅刻してしまう。
バス停に来る途中、クルマにはねられてしまったんだ、私はそう言い訳し、足にギプスを装着する。嘘のギプスだ。



動けない自分にギプスが必要になる。それは、病を探す、という行動になる。


何か調べたか?という医者の質問は、病探しへの慎重さだと思う。



ところで、私は、うつ病の人を、怠惰だ、言い訳だと責めるつもりはない。ギプスで楽になれるなら、それでいいと思うし、誰だって動けないときには休んでいたい。あたりまえだ。

動けないときに、「動けないから休むね」と言えないこと、言っても通用しない世界は呪ってしまっていいとも思う。





他に、質問されたことで覚えているのは、家族に、精神を病んだ人などがいるか、というもの。



私には敬愛するする人がいて、それは祖母なのだが、祖母は自殺未遂をしたことがあった。家出も多く、娘である母も、家出をしたことがあった。



私は、いいえ、と答えた。


精神を病む、ということに何らかの遺伝的な素質や家庭環境が関わっているのかもしれないが、気分的にこの質問には正直に答える気がしなかった。




他には、学生か社会人か、とか、学校では何してる、とか、就職だな、とか、そういう質問をしながら、特定の原因は心当たりがあるか、というようなことをきかれたような気がする。


思い当たるような原因はなかった。


無理矢理に当てはめれば、いくらでもあったのかもしれない。就職はたしかに喜んでしたいタイプではなかったし、家庭は貧乏だった、アルバイトをしながら学校に通い、読みたい本や、弾きたい曲や、行きたい美術展は腐るほどあった。

やりたいこととやりたくないことの天秤のバネが狂っていないと生きられない、そんな感じではあった。


ただ、私は原因探しをしたくなかった。言葉のゲームにとりこまれてしまうように感じられたからだ。


病を探すように、過去に原因を求める。

それは容易に過去をねつ造することにつながる。


あのとき、こうなったから、今こうなっている。


それは、現状肯定に役に立つならいいのだが、負の光が過去から現在を照らし、本当は笑える輝かしい過去が、暗いものになってしまう。

私は過去を振り返るタイプだ。それは過去が美化されているから。美化された過去は、美しいままであってほしい。

だから原因探しはやめた。



それで、医者は、離人の症状が強いね、若い女性なんかがなりやすいみたいだけどね、みたいなことをにこやかに言って、薬を処方してくれた。

もう忘れてしまったが、その日処方されたのは、ジェイゾロフトという薬と、名前を度忘れした、睡眠薬の2種類だった。


うつ病ですね、とは言われなかった。



先の医者の友人に精神科行ってきたよ、これこれのクスリを処方されたよ、と伝えると、「ジェイゾロフトって出たばっかりの新しい薬だよ、薬屋に営業されて使ったのかな」、などと病院の舞台裏を交えてからかってくれた。


医者と患者の信頼関係はもちろん重要だと思う。しかし、どこにだってビジネスは存在する。

ビジネスと美学が相反するわけではないが、もしこの世に「尊厳ある苦しみ」のようなものがあったとしても、医者は患者の死を避けることを第一とするだろう。

尊厳死のために殺人者として裁かれる医者もいる。


医者だって、患者に死なれたくない。そのためには、薬漬けにしてでも生きさせる選択をとることもあるだろう。

医者だって、普通に楽しい生活を送りたい、フツーの人間のひとりだろう。


医者のにこやかな対応が、患者を死なせないための技術で、患者と医者の対話が、死を遠ざけ、問題を棚上げにする、医者ごっこ、患者ごっこだったとして、何の問題もない。


ただ、私はそういうところに長居するには時間が足りない、というか、金が足りない!、そう思ったので、クスリとフィジカルなアプローチで行こうと思ったのだった。


たぶん、今思えば、若くて体力があったし、若いなりの攻撃性というかアッパーな衝動も眠っていたのだと思う。


結果的に1年はかからずに、病院に通う必要もなくなった。

その期間のこともいつか書くかもしれない。

ただ、私の病気に対する姿勢はややへそまがりだし、誰にでも期待できる病気との接し方ではないようにも思う。



実際、鬱になってしまった人は、どういうアプローチをとる人が多いのかな。



病院に通わなくなっても良くなった私に、恋人ができ、その人は長くうつ病を抱えているひとで、そしてつきあって数年経ち、別れた、そんなことを今度書きます。







ではまた。





はじめに

はじめまして。



そもそも、これを読んでいるあなたがどのような人なのかわからない。
誰に向けて書いているのかわからなくなる。


書かれるものは、読まれるもの。


それが、何かを書こうと思うときの私の基本的な方針。
だから、あなたを想像したいのだけど、どうも手が届かない。


それで、ブログランキングというのを調べて、とりあえず、「ブログ村」というところに登録してみた。
膨大なカテゴリがあったが、村民としてカテゴライズされることで、たしかに、誰に向けて何を書いているのかが、わかりやすくなりそうだと感じた。


わたしは、「うつ病」というカテゴリにこのブログを登録した。


その理由は、私がうつ病で苦しんでいるとか、うつ病を克服してその経験を誰かの希望にしたい、とか、そういうものではない。

今現在、うつ病で気分のすぐれない日々を送っている人に対して失礼だとか、そういう意見もあるかもしれないが、私は、「うつ」を≪何か≫の象徴、代表、典型だと感じ、その≪何か≫に対して敏感な人が多そうな「うつ」カテゴリで書いてみようと思った。

≪何か≫がなんなのか簡潔に説明できるか自信がないので、書いていくうちに、見えてくればいいな、と思う。



例えば、私がブログランキングという存在を知った契機というのが、海外滞在中のことだった。

タイに半年ほど滞在していたのだが、多くの長期旅行者に出会った。

世界一周中だという旅人も多く、私はそのようなことをする人たちにはじめて出会った。

世界をめぐる彼ら彼女らの中には、ブログ村の世界一周というカテゴリに参加している人も多かった。


私とブログランキングとの出会いなどはどうでもよくて、興味深かったのは、知り合った旅人の多くが≪何か≫を感じさせる人たちだった、ということだ。



乱暴に言ってしまうなら、うつ病の人と旅人は似ている。

「うつ」と「旅」に共通するものがある、ということ。


私の解釈の上では、という但し書きが必要になるが。



私はタイ滞在中、旅ブログをつけようかと思った。仲良くなった旅人と互いの旅やそこで感じたことを共有しあうために。


日本で旅に出られない人が、旅をした気分になれるように、というコンセプトでブログをつける人もいる。

私は、それは無理ではなかろうかと思った。

強引に言うならこうだ。


「この世には二種類の人間がいる。旅に出る者とそうでない者。そして両者はわかりあうことができない」


なぜそう思うか、長くなりそうなので、いずれ書きたい。

ただ、それが、半年日本を離れて、帰国したときの強い実感だった。



一方で、旅をする人とそうでない人、という分類に無理があることもわかった。あたりまえか。



旅人の中にも≪何か≫を感じさせない人もいたし、旅に出ない人の中にも≪何か≫を強く感じさせる人がいる。



ただし、≪何か≫を感じさせる人は、どこかで代償を払っているようなところがあったり、闇を感じさせたり、心に獣を飼っていたり、そういうところがあるように思われた。

その典型の一つが、うつだった。


だから私は、とりあえず、このブログの読者の姿を思い浮かべるとき、うつ病の人、うつうつとしている人を想像することにした。

≪何か≫を感じさせるからだ。



もっと広く想像するなら、≪何か≫を感じさせるあなたは、犯罪者かもしれないし、何かからの逃亡者かもしれないし、芸術家かもしれないし、一見平凡なサラリーマンかもしれない。


そういう人に読まれたいと思って書く。





ところで、私自身はどうなのかと言えば、どうなのだろうか。




自分語り、という行為には、恥ずかしさがあるが、私が何かを発信することで、読んだ人が、自己顕示をうながされて、コミュニケーションになるかもしれないので、次の記事では、そういうことを書いてみようと思います。



では、また。









ところで、ブログランキングですが、ページ最下部に、ねこのバナーを置いたので、記事が面白かったりしたときやなんかに、クリックしていただけると、「ああ、読まれているんだなあ」とうれしくなります。


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2013年5月22日水曜日

いま、この夜は、私だけのもの

さっきまでひどい気分だった。

いまも、少し。

梅雨を控えた新宿の夜は、暖かくもなく寒くもなく、肌とこの世の境界があいまいで、それは妙に心地よいのだけれど。

気分がすぐれない理由は明らかで、理由があるだけましなのだろうけれど、その原因と向き合う勇気が出ない。


プロは何と言うのかな。

「自分と向き合って」
「一つ一つ解決していきましょう」

そんな風に言うかもしれない。



これが解決しさえすれば、日常がおだやかにまわる。

そうだとしても、解決に向けて動くくらいなら、ごまかし続け、嘘で何かを守り---何を守りたいんだろう---逃げながら、時々追っ手を振り返り---向かうべき方向に背を向けて振り返るということは---銃でもあったら敗走だってサマになるのかな---そんなことを考える。とりとめもなく。


そう、立ち向かうくらいなら、逃げ切れはしないかと。

逃げ切るなんて言ったって、走ろうなんて気にはなれないけれど。


暑さも寒さも感じさせない空気のように私はただよい、然るべき日に笑う準備はしておいて、問題はすべてほったらかしてしまいたいのさ。



あいまいな気候は、私にそういうことを考えさせた。



その考えは案外気分を落ち着かせた。


重要なのは問題に立ち向かうことではなくて、問題を抱えていても、ごはんを食べてコーヒーを飲んで、ハーブティーでもいいけどね、本を抱えて布団にくるまることができる、そういう日々。


そのためならば、必死で嘘をつく。嘘が苦しいと思ったら、ダウンタウンのビデオでも見たら結構笑えてしまって、やがてビデオが終わったら、また嘘をつくだけ。


嘘が弱り始めたら、考えるしかない。私を守るアイデアを考える。そのためには情報が必要だ。


本を読んで、ネットを徘徊し、書きとめ、絵を見て、音楽を聴き、そうしていると、あるとき何かをひらめいたり、インストールされるものがある。きっと。




これからブログに書くことは、私の経験や、その経験から持ち帰った考え、もしくは嘘。



日記でも、私小説でも、エッセイでも、コラムでも、批評でも、なんでもないかもしれないけれど、読む人を、たとえそれがまやかしだとしても、一瞬でも、気を楽にさせるものにしたい。

アッパーな衝動でも、ダウナーな安寧でも、嘘のネタでも、なんでもいいから、読まれる理由のあるものになることを目標にして、書いて、いけるかな…



なんで、そんなに嘘にこだわり、真実から目をそむけ、逃げ、ごまかそうとするのか。


わからないよ。


でもさ、例えば、真夜中に、電話やインターホンがあまり鳴らないのは、借金取りも、情熱的ななにかの勧誘も、強引に真実に向き合わせようとする人たちだって、その時間は、寝てるんだよね。

借金を取ることがその人の人生の目的ではないし、熱心に何かを勧める人も夜はその人の生活に帰っていく…

「来るなら本気で来いや!」って言いたいんじゃないよ。勘弁してよ。


つまり、だから、この夜だけは、誰にもじゃまされない、自分だけのもの。


あまり世をはかなんだ言い方はしたくないけれど、これはゲームなのかなって思うよ。役回りがあるだけ。その役は本質じゃないかもしれないよ。

徹底したルールや、ガチガチの脚本の前では、役者も役に食われてしまうかもしれない。


「あいつまじめに参加しろよ」


かつて、ホームルームとか文化祭とか、そんなのが一人か二人、クラスにはいたような気がする。



誰が良いとか悪いとか、そういうつもりで言ってるんじゃないけどね。



逃げて逃げて、嘘をついて、誰かを欺いて利用して、自分を守って、相手は騙されて、そのころにはもう、何が真実か嘘かなんて、ずっとわからなくなっていて、かつての真実を口にするかもしれない。

やっぱり、墓まで持っていくかもしれない。


わからないよ。


この記事の結論、そういうのはないよ。


真実とか答え、って複雑すぎる世界を、小さく狭く、理解可能なところまで単純にしよう、という魂胆でしょう?


わかりやすいことはいいことだけどね、もっと多くのひとに読まれる読み物にもしたいけどね、そんな感じでプツリと終わります。



ではまた夜に。