前々回、新型うつは治らない、ということを書いた。前半では、自分と世界のインターフェイスについて書いた。
前回は、本ブログの『the good life』というタイトルについて私の過去を書いた。
あいかわらず、構成のよくわからないブログになっていて、かといって、日々の日記でもない。
もうちょっとうまくまとめられないかと思う。そのうち、考えをコンパクトにまとめてみたいのだけど。
で、新型うつは治らない、とかインターフェイスとか、自分語りとか、一応私の中では関連が強いのだけど、それをわかりやすく書けるだろうか。
構成、というと大げさだけど、順番かな。
どういう順序で書くといいのかな。
新型うつ、から書き始めて、精神を病むことの症例というか、ある特徴としての自分語り、あるいは、自分語りが示す人間性とうつの関連、そんで、その対処のヒントとして、インターフェイスの話題。
みたいな感じだろうか。
でも、そもそも、新型うつ、というのをどう扱ってよいかわからない。
よく言われる概要は知っている。
嫌なことに対すると症状が出る。そうでないときは大丈夫。とか。
私は以前の記事でも書いたが、精神科に通った。
診断当初は、特に何も病名などは言われなかった。
病気と名付けることにひそむ罠のようなものがあるのではないか、とも書いた。
その後、通院を続けているうちに、当時通っていた大学に、通院したとか何か申請すると、医療費が負担される制度がある、と言うのを聞いて、貧乏学生の私はさっそくそれを実行した。
そこで問題、というか、病院側には大学提出用の書類を書いてもらうのだが、診断名を書く欄があった。
私は何でもよかったのだが、確かに、なんと書くつもりだろうあの先生は、と少し興味深かった。
経過報告と、薬の微調整をし、待合室で会計と書類の受け渡しを待っていると、再び診察室に呼ばれた。
医師は、あくまでも、便宜上書かなくてはならないから「うつ病」と書きますが、気にしないでください、というようなことを言った。
私は薬で結構調子が良くなっていたし、病名をはじめ、言葉で病気へアプローチしないと決めていたので、病名は何でもいい、気にしない、と答えた。
「あなたはうつ病です」という宣告に、どういう問題が起こりうるだろうか、と想像してみる。
自分をガチガチに縛って歯を食いしばって、胸を押さえながら、生活してきたガンガンにうつだった人は、「うつかよ、もうだめだ」と、バッタリ倒れるかもしれない。
これとは実は近いような、紙一重のような気もするのだが、逆に、「これで休める」と倒れる人もいるかもしれない。
ちょっと、斜めに想像してみる。
「うつかよ、もうだめだ」と言いながら、内心で「これで休める」「これで診断書ゲット」という人もいるかもしれない。
そして、薬は確かに効く、しかし、元気になって活動しなくてはならないことや、場所は、その人を疲弊させた原因のような場所。
これまでに休んだ気まずさや、ブランクを取り戻さなくてはならない不安も大きい。
休む理由が欲しくなる、それを探す、なんだか頭痛がする、薬の説明には「頭痛が出る場合がある」と書いてある、これは薬が合っていない、病院へ行こう、まだだめみたいだ。
仮病とか詐病とか、本当に苦しい、とかその違いはこの際重要視しない。
そこは本人にしか知りえない領域で、病気のフリをせざるをえない孤独だって苦痛だろうし、本当に苦しいのに嘘だと思われ理解してもらえない苦痛もあるだろう、けれど、それは計りようのないもので、逆に、苦痛を誰かに理解してもらえている、ということだって証明不可能なわけで、「あなたのつらさは理解できる。ゆっくり休んでね」と言う人の本心は疑ってしまえばいくらでも疑える。
嘘か本当か、みたいなゲームをここに持ち込んではきりがない。
ジョーカーとそうでないカードを、裏向きに2枚出されて、ババはどっちだ?と言われても、答えは出ない。
相手が、こっちがジョーカーだよ、と言っても、裏をかいて、いやいや、裏のまた裏で、と無限に疑うことができる。
これが、病気の症状を見極めるゲームだったら最悪だと思う。
本当なのだと言いたい人は、いかに信じてもらえるかと、具合を悪く見せなければならない。
信じてもらうことに疲れてしまえば、孤独に闘病するより他ない。
特に、本当にギリギリの人や、器質性のうつなどをかかえている人が、この「うつ病ゲーム」に巻き込まれてしまうことは、かなり危険だと思う。
本当か?本当だ。
そうやって、病気を大盛りにしたり、あるいは、無理矢理健康を装ったり。
そうやって、適切な治療や必要な環境から遠ざかってしまうからだ。
だから、私は、うつ病をはじめ、精神を病んだ状態の人にとって、仮病、詐病、真実、嘘、そういう見極めは必要ないと思う。(医者には重要なことだと思うが)
ではどう考えればいいのか。
新型うつにせよ、うつにせよ、仮病にせよ、共通しているのは、「休息を必要としている」という部分だと思う。
とりあえずこれを前提にして考えてみたい。
話を分かりやすくするために(わかりやすくなるかな?)、「個人」と「社会」と次元を2つに分けてみる。
まず、「休息を必要としている」という前提の状況を、社会が認めるかどうか、個人(その人自身)が認めるかどうか。
とりあえず4通りある。
A:社会が認め、個人も認める。
B:社会が認め、個人は認めない。
C:社会が認めず、個人は認める。
D:社会が認めず、個人も認めない。
A:休むことができる。基本的に状況は悪くない。
ただし、復帰した先が原因である場合の、新型うつは、解決には至らない可能性がある。
個人がどこまで認めるかにもよるが、社会福祉のサービスを受ける場合もあるかもしれない。
B:Aの応用形に感じられる。というのも、新型うつの場合、治った先に問題があるので、この状態にある個人は、治った後を先回りしている可能性があるかもしれない。
自分に厳しい、などのパーソナリティによるのであれば、医師の適切な対処や、自分をかえりみる必要があるかもしれない。回復することを目標とするのに、この態度はあまり合理的ではないので、もしかすると、治りたくないと感じているのかもしれない。その場合は、自覚の薄い、Aの応用形かもしれない。
C:休みにくい。このパターンの1つなのかもしれないが、個人と社会のギャップを埋める闘争、と言う形で、裁判でたたかうひともいるようだ。それはそれで、良いと思う。社会の側が認めれば、Aの状況になる。
ただし、私自身は個人レベルでの対処策を考えていきたいので、社会福祉や労組、裁判といった話題にはあまり触れないと思う。そういうのがきらいだとかいうわけではなく、スピードの問題で、根気強い活動が必要になるかもしれず、価値観の違うものとのやり取りはそれだけでストレスだし、相手が用意した枠内に、自分を譲歩させる必要もあるかもしれない。妥協は必要かもしれないが、相手の理解できる枠内で生きなければならない、というのはなかなかつらいというか、振出しに戻る、という感じがしなくもない。
所属する社会が合わない、という考えがあるなら、その先を具体的にイメージしたいところ。
D:絶望的。だが、これはこれで、あり、だとも思う。その個人がどこまで動いていられるか、という問題になってしまうが。
絶望的ではあるが、実は、この状況で、日常を送る人は相当いるのではないかと思う。はた目には、疲れた社会人、あるいは学生。その実、とっくに体は煙を吹き出し、精神は悲鳴を上げている。なんとか、ぎりぎりの癒しで、動いている。
分類をしてみたが、意味はあっただろうか。
まず、社会の側が、認めるかどうかは、こちらでは決められない。
そして、認めさせたい、と思うときには、基本的に、個人レベルでは認めている、という状況になると思う。
(社会福祉的なマインドの強い人や、誰かのためにと思う自覚の薄いD状況の人が活動するパターンはあると思う)
ということで、とりあえず、問題を個人が認めるかどうか、というところで考えてみたいと思う。
それでは、また。
口直しの音楽は何にしよう。
週末で、昼にパソコンに向かっていたので、昼下がり的なやつ。それで、ちょっと、けだるい曲。
キリンジ/エイリアンズ
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