前々回の続きを書けていない。
新型うつ病について思うところを書いて、自分がうつ状態であることを認めるかどうか、をテーマに次回は書く、みたいに予告した。
何を書こうとしたのか。
たぶん、自分が自分をどう見ているか、を書こうとしたのだと思う。
要は、自意識、ということだ。
さらに、それ以前の記事で、インターフェイスのありよう、について書いた。
そこでは、自分と世界、という次元をつなぐインターフェイスが人によって異なると書いた。
例として、ひきこもりのように、インターフェイス(自室のドア、ケータイといったもの)を可能な限り閉鎖していき、その究極は、完全な隔離状態、というか、世界を自分だけにしてしまう。
あるいは、逆方向の究極状態として、インターフェイスを解消し、自分と世界の境界を失くし、自分がいなくなる。自分がいなくなる、というのはイメージがしづらいが、例えば、鏡を見ても映った人物を自分と認識しないとか、他人の経験と自分の経験の区別がない、とか、だいぶすごい状態なのではないかと思う。
で、自意識のありよう、についてだけれど、うつ状態のひと、うつになりがちな人、というのは、自意識が強いのだろうと思う。
自意識過剰、というやつ。
自意識過剰、という言葉は、どこか一人歩きしていて、使いづらい言葉だ。
例えば、鏡ばかり見て、髪型をよくチェックする人なんかを、自分好きだねー、自意識過剰なんじゃないの? みたいに使う。
しかし、私は思うのだけど、自分が好き、というひとだけが自意識過剰なのではない。
自分が嫌い、自分なんか消えてしまえばいい、そういうことを言う、一見すると謙虚とも思えるひとも、自意識過剰なのだと思う。
なぜなら、好き、というプラス方向か、嫌い、というマイナス方向かの違いはあれど、自分に執着している度合が強い、という意味では一緒だから。
数値で言うなら、絶対値が大きいという意味で、同じなのだと思う。
自意識過剰というのは、自己執着の度合が強い、ということだと思う。
自分が好きか嫌いかは関係がない。
自分が好きで好きで、周囲から煙たがられるようなひとも、自分が嫌いで嫌いで死んでしまいたいという、謙虚に思われるひとも、ある意味では、等しく、エゴが強いのだと思う。
エゴが強いことを非難したいわけではない。
私自身はどちらか言うと、エゴが強くて自己評価の高いひとが好きだ。
あまりに身勝手な振る舞いが、私のデメリットになるようだと困るかもしれないが、言いたいことを言い、やりたいことを我慢しない、そんなエネルギッシュなひとと一緒にいると、こちらまで元気になってくる。
それは、私たちを縛る、決まり事や、社会の矛盾や、私たちの元気を奪う物事に対して、風穴を開けるような、ぶち壊してくれるような、そういうエネルギーを感じるからだと思う。
自意識が強いこと、エゴが強いこと、それ自体に良い悪いはないと思う。それはある種のエネルギーのようなもので、それがどこに向くかの問題。
毒にも薬にもなる物質があるようなもの。
ただ、自意識の強さと、うつ、はかなり関係が強いと思う。
アイデンティティ、という考え方を例に考えてみる。この言葉もかなり使われる言葉だ。
自己同一性、などと訳される。
自分が自分であること。
確固たる自分。
そういう意味で使われる言葉。
一見すると、立派な感じがする。
だけど、私はこれほど迷惑な概念もないと思う。
例えば、過去を振り返ってみる。
自分が歩んできた人生には、大なり小なり、選択をせまられる分岐点があったと思う。
その都度、どちらかを選んで今に至る。
強い意志を持って選んだ選択もあるだろうし、そういう道筋を「選択と決断の連続だった」と豪語するひともいるだろう。
あるいは、他人や時間に流されるように、選んできたひともいると思う。
そして、それらの分岐点を、過去から現在に向かって、線で結んでいく。
この線が、アイデンティティだ。
「私に意志などはなかった。ただ流されるがままの、一貫性のない曲線だ」
その場合、選択肢に対して、意思をもたない、という一貫性がアイデンティティ、ということもできるかもしれない。
この、線、一貫性、ここに、罠がある感じがする。
過去から現在までの分岐点を結ぶ直線は、やがて、現在を追い越し、未来にむかって、伸びていく。
これから、将来迫られる選択肢の前で、どちらを選ぶかは、過去からのびる線が決める。
つまり、その選択が、今までそうしてきた、「私らしさ」だからだ。
逆に言うと、「私らしくない」、選択肢を選びづらい、ということ。
また、私らしさを意識することは、自己に執着すること、過剰な自意識を持つことになる。
ここで逃げるなんて、私らしくない。
私らしい仕事ってなんだろう。
そもそも私ってなんだろう。
私は何がしたいんだろう。
私の人生って、本当に私の人生だろうか。
こういった疑問は、人生に、自分に、真摯であろうとするほど、深みにはまってしまうと思う。
例えば、嫌な仕事から逃げたくて、嘘にせよ、本当にせよ、体を壊したとする。
自問してみる。
なぜ、仕事が嫌だったのか。
自答してみる。
その仕事は、替えがきく。
私でなくてもいい。
つまり、私は取り替え可能な存在。
私はこういうことをして過ごすために生まれてきたのだろうか。
そもそも私は、何のために生まれてきたのだろうか。
そうすると、体を休めても、復帰する先は、私が生まれてきた意味を無視している。
結局、体を休めても、魂は納得しない。
そう、魂が納得してくれない。
人は、なぜ、自分らしさを求めるのか。
今回は、自分らしさを求めてしまった結果、魂が納得しないところでは、生きていけなくなってしまう、ということについて書きました。
次回は、自分らしさ、自分が生きる意味、について考えてみようと思います。
では、また。
今回は、重いテーマを扱ってしまいましたが、普遍的で、共感してくれるひとも多いのではないかと思うんです。
口直しになるようなBGMはあるのかな。
口直しではなくて、生きる意味を探ろうとする、そういう作品はいっぱいあると思うけど。
たぶん、音楽に限らず、ある種の芸術は、生きる意味を考えるその過程で生まれたりすると思うから。
今日の記事の口直しBGM、思いつかず。
なんかひきずるテーマだから。
この気分を助長するBGMならたくさんありそうだけど。
誰にも、きっと、そういう曲があるのではないでしょうか。
私は、どの曲をかけようかな。
選曲の理由についてだけど、歌詞。
”PKを決めて英雄だったあいつが、今じゃ、ちっちゃな町の郵便屋さんさ”
”とてもしあわせなはずなのに、なぜだか、なんでか、涙が出るよ”
”ああ、僕は、何か、やらかしみてみたい…”
これは、明らかに、生きる意味を問うて、「君、それでいいの?魂は納得しているの?」という態度で歌われている。
そして、僕は、僕にしかできないことをやらかせないか、と。
生きる意味をテーマに作品をつくるアーティストは多いが、そういったテーマは作品内で表現されている。
アーティストなのだから作品勝負。当然だ。
しかし、このバンドは、自分たちの「信者」となったオーディエンスに対して、「僕は、君の生きる意味ではない。君の生きる意味を見つけてあげられるわけでもない」そういう態度をとろうとする。
つまり、作品の外でも、テーマをひきずっているということになる。
その結果、と言っていいかわからないが、このバンドは活動が滞っているようだ。
音楽性というよりも、活動する姿勢において重要なバンドであるとは思うのだが、抱えているテーマが重かったようだ。
助長BGM
銀杏BOYZ/青春時代
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