2013年5月26日日曜日

あなたが生きる意味と、アイデンティティの罠




前々回の続きを書けていない。

新型うつ病について思うところを書いて、自分がうつ状態であることを認めるかどうか、をテーマに次回は書く、みたいに予告した。


何を書こうとしたのか。

たぶん、自分が自分をどう見ているか、を書こうとしたのだと思う。



要は、自意識、ということだ。




さらに、それ以前の記事で、インターフェイスのありよう、について書いた。

そこでは、自分と世界、という次元をつなぐインターフェイスが人によって異なると書いた。


例として、ひきこもりのように、インターフェイス(自室のドア、ケータイといったもの)を可能な限り閉鎖していき、その究極は、完全な隔離状態、というか、世界を自分だけにしてしまう。


あるいは、逆方向の究極状態として、インターフェイスを解消し、自分と世界の境界を失くし、自分がいなくなる。自分がいなくなる、というのはイメージがしづらいが、例えば、鏡を見ても映った人物を自分と認識しないとか、他人の経験と自分の経験の区別がない、とか、だいぶすごい状態なのではないかと思う。



で、自意識のありよう、についてだけれど、うつ状態のひと、うつになりがちな人、というのは、自意識が強いのだろうと思う。



自意識過剰、というやつ。

自意識過剰、という言葉は、どこか一人歩きしていて、使いづらい言葉だ。



例えば、鏡ばかり見て、髪型をよくチェックする人なんかを、自分好きだねー、自意識過剰なんじゃないの? みたいに使う。



しかし、私は思うのだけど、自分が好き、というひとだけが自意識過剰なのではない。


自分が嫌い、自分なんか消えてしまえばいい、そういうことを言う、一見すると謙虚とも思えるひとも、自意識過剰なのだと思う。



なぜなら、好き、というプラス方向か、嫌い、というマイナス方向かの違いはあれど、自分に執着している度合が強い、という意味では一緒だから。


数値で言うなら、絶対値が大きいという意味で、同じなのだと思う。


自意識過剰というのは、自己執着の度合が強い、ということだと思う。

自分が好きか嫌いかは関係がない。




自分が好きで好きで、周囲から煙たがられるようなひとも、自分が嫌いで嫌いで死んでしまいたいという、謙虚に思われるひとも、ある意味では、等しく、エゴが強いのだと思う。




エゴが強いことを非難したいわけではない。

私自身はどちらか言うと、エゴが強くて自己評価の高いひとが好きだ。


あまりに身勝手な振る舞いが、私のデメリットになるようだと困るかもしれないが、言いたいことを言い、やりたいことを我慢しない、そんなエネルギッシュなひとと一緒にいると、こちらまで元気になってくる。

それは、私たちを縛る、決まり事や、社会の矛盾や、私たちの元気を奪う物事に対して、風穴を開けるような、ぶち壊してくれるような、そういうエネルギーを感じるからだと思う。





自意識が強いこと、エゴが強いこと、それ自体に良い悪いはないと思う。それはある種のエネルギーのようなもので、それがどこに向くかの問題。

毒にも薬にもなる物質があるようなもの。





ただ、自意識の強さと、うつ、はかなり関係が強いと思う。



アイデンティティ、という考え方を例に考えてみる。この言葉もかなり使われる言葉だ。

自己同一性、などと訳される。




自分が自分であること。

確固たる自分。





そういう意味で使われる言葉。


一見すると、立派な感じがする。





だけど、私はこれほど迷惑な概念もないと思う。




例えば、過去を振り返ってみる。

自分が歩んできた人生には、大なり小なり、選択をせまられる分岐点があったと思う。

その都度、どちらかを選んで今に至る。



強い意志を持って選んだ選択もあるだろうし、そういう道筋を「選択と決断の連続だった」と豪語するひともいるだろう。


あるいは、他人や時間に流されるように、選んできたひともいると思う。





そして、それらの分岐点を、過去から現在に向かって、線で結んでいく。


この線が、アイデンティティだ。



「私に意志などはなかった。ただ流されるがままの、一貫性のない曲線だ」

その場合、選択肢に対して、意思をもたない、という一貫性がアイデンティティ、ということもできるかもしれない。





この、線、一貫性、ここに、罠がある感じがする。




過去から現在までの分岐点を結ぶ直線は、やがて、現在を追い越し、未来にむかって、伸びていく。


これから、将来迫られる選択肢の前で、どちらを選ぶかは、過去からのびる線が決める。


つまり、その選択が、今までそうしてきた、「私らしさ」だからだ。


逆に言うと、「私らしくない」、選択肢を選びづらい、ということ。


また、私らしさを意識することは、自己に執着すること、過剰な自意識を持つことになる。






ここで逃げるなんて、私らしくない。


私らしい仕事ってなんだろう。


そもそも私ってなんだろう。


私は何がしたいんだろう。


私の人生って、本当に私の人生だろうか。




こういった疑問は、人生に、自分に、真摯であろうとするほど、深みにはまってしまうと思う。






例えば、嫌な仕事から逃げたくて、嘘にせよ、本当にせよ、体を壊したとする。






自問してみる。



なぜ、仕事が嫌だったのか。





自答してみる。



その仕事は、替えがきく。

私でなくてもいい。

つまり、私は取り替え可能な存在。

私はこういうことをして過ごすために生まれてきたのだろうか。

そもそも私は、何のために生まれてきたのだろうか。






そうすると、体を休めても、復帰する先は、私が生まれてきた意味を無視している。

結局、体を休めても、魂は納得しない。


そう、魂が納得してくれない。




人は、なぜ、自分らしさを求めるのか。




今回は、自分らしさを求めてしまった結果、魂が納得しないところでは、生きていけなくなってしまう、ということについて書きました。


次回は、自分らしさ、自分が生きる意味、について考えてみようと思います。






では、また。













今回は、重いテーマを扱ってしまいましたが、普遍的で、共感してくれるひとも多いのではないかと思うんです。

口直しになるようなBGMはあるのかな。

口直しではなくて、生きる意味を探ろうとする、そういう作品はいっぱいあると思うけど。

たぶん、音楽に限らず、ある種の芸術は、生きる意味を考えるその過程で生まれたりすると思うから。







今日の記事の口直しBGM、思いつかず。

なんかひきずるテーマだから。









この気分を助長するBGMならたくさんありそうだけど。

誰にも、きっと、そういう曲があるのではないでしょうか。







私は、どの曲をかけようかな。





















ちょっと青臭すぎて照れる選曲になるので言い訳しておく。

選曲の理由についてだけど、歌詞。




”PKを決めて英雄だったあいつが、今じゃ、ちっちゃな町の郵便屋さんさ”

”とてもしあわせなはずなのに、なぜだか、なんでか、涙が出るよ”

”ああ、僕は、何か、やらかしみてみたい…”




これは、明らかに、生きる意味を問うて、「君、それでいいの?魂は納得しているの?」という態度で歌われている。

そして、僕は、僕にしかできないことをやらかせないか、と。



生きる意味をテーマに作品をつくるアーティストは多いが、そういったテーマは作品内で表現されている。
アーティストなのだから作品勝負。当然だ。



しかし、このバンドは、自分たちの「信者」となったオーディエンスに対して、「僕は、君の生きる意味ではない。君の生きる意味を見つけてあげられるわけでもない」そういう態度をとろうとする。


つまり、作品の外でも、テーマをひきずっているということになる。



その結果、と言っていいかわからないが、このバンドは活動が滞っているようだ。

音楽性というよりも、活動する姿勢において重要なバンドであるとは思うのだが、抱えているテーマが重かったようだ。






助長BGM





銀杏BOYZ/青春時代

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