いまも、少し。
梅雨を控えた新宿の夜は、暖かくもなく寒くもなく、肌とこの世の境界があいまいで、それは妙に心地よいのだけれど。
気分がすぐれない理由は明らかで、理由があるだけましなのだろうけれど、その原因と向き合う勇気が出ない。
プロは何と言うのかな。
「自分と向き合って」
「一つ一つ解決していきましょう」
そんな風に言うかもしれない。
これが解決しさえすれば、日常がおだやかにまわる。
そうだとしても、解決に向けて動くくらいなら、ごまかし続け、嘘で何かを守り---何を守りたいんだろう---逃げながら、時々追っ手を振り返り---向かうべき方向に背を向けて振り返るということは---銃でもあったら敗走だってサマになるのかな---そんなことを考える。とりとめもなく。
そう、立ち向かうくらいなら、逃げ切れはしないかと。
逃げ切るなんて言ったって、走ろうなんて気にはなれないけれど。
暑さも寒さも感じさせない空気のように私はただよい、然るべき日に笑う準備はしておいて、問題はすべてほったらかしてしまいたいのさ。
あいまいな気候は、私にそういうことを考えさせた。
その考えは案外気分を落ち着かせた。
重要なのは問題に立ち向かうことではなくて、問題を抱えていても、ごはんを食べてコーヒーを飲んで、ハーブティーでもいいけどね、本を抱えて布団にくるまることができる、そういう日々。
そのためならば、必死で嘘をつく。嘘が苦しいと思ったら、ダウンタウンのビデオでも見たら結構笑えてしまって、やがてビデオが終わったら、また嘘をつくだけ。
嘘が弱り始めたら、考えるしかない。私を守るアイデアを考える。そのためには情報が必要だ。
本を読んで、ネットを徘徊し、書きとめ、絵を見て、音楽を聴き、そうしていると、あるとき何かをひらめいたり、インストールされるものがある。きっと。
これからブログに書くことは、私の経験や、その経験から持ち帰った考え、もしくは嘘。
日記でも、私小説でも、エッセイでも、コラムでも、批評でも、なんでもないかもしれないけれど、読む人を、たとえそれがまやかしだとしても、一瞬でも、気を楽にさせるものにしたい。
アッパーな衝動でも、ダウナーな安寧でも、嘘のネタでも、なんでもいいから、読まれる理由のあるものになることを目標にして、書いて、いけるかな…
なんで、そんなに嘘にこだわり、真実から目をそむけ、逃げ、ごまかそうとするのか。
わからないよ。
でもさ、例えば、真夜中に、電話やインターホンがあまり鳴らないのは、借金取りも、情熱的ななにかの勧誘も、強引に真実に向き合わせようとする人たちだって、その時間は、寝てるんだよね。
借金を取ることがその人の人生の目的ではないし、熱心に何かを勧める人も夜はその人の生活に帰っていく…
「来るなら本気で来いや!」って言いたいんじゃないよ。勘弁してよ。
つまり、だから、この夜だけは、誰にもじゃまされない、自分だけのもの。
あまり世をはかなんだ言い方はしたくないけれど、これはゲームなのかなって思うよ。役回りがあるだけ。その役は本質じゃないかもしれないよ。
徹底したルールや、ガチガチの脚本の前では、役者も役に食われてしまうかもしれない。
「あいつまじめに参加しろよ」
かつて、ホームルームとか文化祭とか、そんなのが一人か二人、クラスにはいたような気がする。
誰が良いとか悪いとか、そういうつもりで言ってるんじゃないけどね。
逃げて逃げて、嘘をついて、誰かを欺いて利用して、自分を守って、相手は騙されて、そのころにはもう、何が真実か嘘かなんて、ずっとわからなくなっていて、かつての真実を口にするかもしれない。
やっぱり、墓まで持っていくかもしれない。
わからないよ。
この記事の結論、そういうのはないよ。
真実とか答え、って複雑すぎる世界を、小さく狭く、理解可能なところまで単純にしよう、という魂胆でしょう?
わかりやすいことはいいことだけどね、もっと多くのひとに読まれる読み物にもしたいけどね、そんな感じでプツリと終わります。
ではまた夜に。
0 件のコメント:
コメントを投稿