2013年5月22日水曜日

いま、この夜は、私だけのもの

さっきまでひどい気分だった。

いまも、少し。

梅雨を控えた新宿の夜は、暖かくもなく寒くもなく、肌とこの世の境界があいまいで、それは妙に心地よいのだけれど。

気分がすぐれない理由は明らかで、理由があるだけましなのだろうけれど、その原因と向き合う勇気が出ない。


プロは何と言うのかな。

「自分と向き合って」
「一つ一つ解決していきましょう」

そんな風に言うかもしれない。



これが解決しさえすれば、日常がおだやかにまわる。

そうだとしても、解決に向けて動くくらいなら、ごまかし続け、嘘で何かを守り---何を守りたいんだろう---逃げながら、時々追っ手を振り返り---向かうべき方向に背を向けて振り返るということは---銃でもあったら敗走だってサマになるのかな---そんなことを考える。とりとめもなく。


そう、立ち向かうくらいなら、逃げ切れはしないかと。

逃げ切るなんて言ったって、走ろうなんて気にはなれないけれど。


暑さも寒さも感じさせない空気のように私はただよい、然るべき日に笑う準備はしておいて、問題はすべてほったらかしてしまいたいのさ。



あいまいな気候は、私にそういうことを考えさせた。



その考えは案外気分を落ち着かせた。


重要なのは問題に立ち向かうことではなくて、問題を抱えていても、ごはんを食べてコーヒーを飲んで、ハーブティーでもいいけどね、本を抱えて布団にくるまることができる、そういう日々。


そのためならば、必死で嘘をつく。嘘が苦しいと思ったら、ダウンタウンのビデオでも見たら結構笑えてしまって、やがてビデオが終わったら、また嘘をつくだけ。


嘘が弱り始めたら、考えるしかない。私を守るアイデアを考える。そのためには情報が必要だ。


本を読んで、ネットを徘徊し、書きとめ、絵を見て、音楽を聴き、そうしていると、あるとき何かをひらめいたり、インストールされるものがある。きっと。




これからブログに書くことは、私の経験や、その経験から持ち帰った考え、もしくは嘘。



日記でも、私小説でも、エッセイでも、コラムでも、批評でも、なんでもないかもしれないけれど、読む人を、たとえそれがまやかしだとしても、一瞬でも、気を楽にさせるものにしたい。

アッパーな衝動でも、ダウナーな安寧でも、嘘のネタでも、なんでもいいから、読まれる理由のあるものになることを目標にして、書いて、いけるかな…



なんで、そんなに嘘にこだわり、真実から目をそむけ、逃げ、ごまかそうとするのか。


わからないよ。


でもさ、例えば、真夜中に、電話やインターホンがあまり鳴らないのは、借金取りも、情熱的ななにかの勧誘も、強引に真実に向き合わせようとする人たちだって、その時間は、寝てるんだよね。

借金を取ることがその人の人生の目的ではないし、熱心に何かを勧める人も夜はその人の生活に帰っていく…

「来るなら本気で来いや!」って言いたいんじゃないよ。勘弁してよ。


つまり、だから、この夜だけは、誰にもじゃまされない、自分だけのもの。


あまり世をはかなんだ言い方はしたくないけれど、これはゲームなのかなって思うよ。役回りがあるだけ。その役は本質じゃないかもしれないよ。

徹底したルールや、ガチガチの脚本の前では、役者も役に食われてしまうかもしれない。


「あいつまじめに参加しろよ」


かつて、ホームルームとか文化祭とか、そんなのが一人か二人、クラスにはいたような気がする。



誰が良いとか悪いとか、そういうつもりで言ってるんじゃないけどね。



逃げて逃げて、嘘をついて、誰かを欺いて利用して、自分を守って、相手は騙されて、そのころにはもう、何が真実か嘘かなんて、ずっとわからなくなっていて、かつての真実を口にするかもしれない。

やっぱり、墓まで持っていくかもしれない。


わからないよ。


この記事の結論、そういうのはないよ。


真実とか答え、って複雑すぎる世界を、小さく狭く、理解可能なところまで単純にしよう、という魂胆でしょう?


わかりやすいことはいいことだけどね、もっと多くのひとに読まれる読み物にもしたいけどね、そんな感じでプツリと終わります。



ではまた夜に。













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