2013年5月24日金曜日

新型うつは治らない、ような気がするので




現在、いやなことを棚上げにしている。

いやなこと、というのはお金に関わっていて、棚上げ、というのはケータイの着信無視。

我ながら最悪だが、心が決まらなくて、電話に触れることさえいやだ。



電話、あるいは、インターホン、といった外部とのインターフェイスは一度悪循環に陥ると恐怖の窓口でしかない。

良い知らせや、素敵な来訪だって同じところからやってくるのに。



インターフェイスについて、もう少し考えてみる。

私の理解だと、ある世界とある世界の境界にあたるもの。


パソコンの画面は、ネットと私を。

水面の向こうの犬がくわえている肉を欲して吠えたら、自分の肉がなくなってしまったわんちゃんにとっては、水面がインターフェイスだと言ってよいと思う。

あなたが、今、自室でこれを読んでいるとして、窓や、ドアの鍵もそれにあたるかもしれない。




村上龍の小説で、自室の窓に目張りをしてひきこもる青年が、その目張りの紙をくりぬき外部をのぞくことで物語が動き出す話があった。
(作品名がなんだったか自信がない。たぶん『最後の家族』)

解説の精神科医が(斉藤学か斉藤環)、「おなじくひきこもりを取り上げた『共生虫』のひきこもりの人物像には無理があったが、今回は実態とかい離していない。しいて言えば、目張りに穴を開けることもないだろう、というところだが、物語の駆動装置として致し方あるまい」、みたいなことを言っていた。


インターフェイスのありようは、人によって全く違うということになるのだと思う。



仮に、インターフェイスの強度?透明度?アクセス可能性?みたいなのを単純に数値化して、数直線にしてみる。


引きこもる人のように、なんぴとたりともアクセスさせない、厳重で、光を通さない、そういう状態をとりあえず、「100」とする。もはやインターフェイスとは呼べないかもしれないが。


では、逆に、もう一方の極北、「-100」はどういう状態だろう。
オールオッケー、超ウェルカム、というのではせいぜい、「-50」くらいかと思う。

たぶん、「自分がない」という状態ではないだろうか。

自分と他人の区別がない。次元が別れていない。自意識がない。

これもまた、インターフェイスとは呼べない、というか、ない。





なんで、私はこんなことを書いているのだろうか。





例によって、結論とか、ないです。

でも、こういうふうに物事にアプローチしていると、なんとなく、世界が見えやすくなるような、そんな感じがするんです、私の場合。

そうすると、なんとなく、自分のことも、これまでより整理して考えられる。


そういう人はじつは結構多いような気がする。




なんか、攻撃的なことを言いたいわけではないけれど、うつ病をとりまく環境って、馴れ合いか偏見のどちらかに偏ってしまっている気がして、気持ち悪いときがある。


薬の名前とか、脳内化学物質の名前とかを羅列する専門家や、耳触りのいい同じことを繰り返し言う民間のカウンセラー、とかアプローチはいろいろ。



ところで、うつへのアプローチそれ自体の自由度ってどんなもんなんだろう。



間違うと死んでしまう、だから、クスリ、みたいな感じで画一的なのかな。

クスリが合う合わない、とかはあるだろうけど、「死なせないために脳内物質をいじる」と言う意味では同じこと。


「無理しちゃだめだよ、ゆっくりね」
みたいにひたすら安静を促す言葉をかける、とか。





なんかもっと、うつへの対し方それ自体が人生、みたいな感じで、「えっ、そこで、それ?」みたいな大間違いなアプローチする人とかいないのかな。






なんかふざけたこと言ってるみたいで悪いけど、くそつまらない社会のゲームに適応不全起こすような、お笑い感性するどい不適合者が、いざ治療の段になると、治療ゲームみたいな感じになって、ツッコミもないのはなんなんだろう、そんな風に思えたことがある。



社会性や心理、人間関係といったものとは無関係に発症する器質的なうつもあると思うのですが、それこそ、薬飲んで寝れば治るんではないかと思う。林公一という精神科医がそんなことを言っていたような気がする。

私自身も、たぶん、器質的な、脳の問題だったのだと思う。薬飲んでいたら良くなった。




問題は、新型うつ、とか言われる方だと思う。



誤解を恐れずに言えば、私は、これは、治らない病気だと思う。

治ることが害である、みたいなメカニズムを持つ印象を受ける。




※急にお詫び※

勝手なことばかり言って申し訳なく思います。
そう言える根拠を出せと言われてもありません。うつの人との関わりの経験についてはいつか書きます。
ただし、経験があるからそれを根拠にモノが言える、というスタンスがあまり好きではありません。
まるで、震災経験者しか命を語れない、みたいな感じがするし、経験さえあれば好きにモノを言える、という傲慢さに通じる気もするし、何より、根拠がなくても経験がなくても、考える自由がある、という状態を尊重したいのです。






なんで、新型うつ病が治らないというのかは、またあらためて書きたいと思う。

新型うつの定義もなんかむずかしい感じがするから、きっかりと何か言えるわけではないけど、「治す治さない」、という考え方ではなく、「発症させない」、というアプローチでいくのはどうだろう、という感じがする。



どうやれば発症しないのか、次回、無理矢理書いてみます。





今後、考え方が変わるかもしれないし、このブログは考えを進化させるためのたたき台のような感じで書いています。

考えがまとまったりしたら、まとめ記事とかも書くようにしたいと思います。



では、また。











口直しミュージックは何にしようかな。







0 件のコメント:

コメントを投稿