2013年7月2日火曜日

『攻殻機動隊ARISE』鑑賞記 前編




こんばんは。


更新が滞ってます。

もはや自分でもどんなテーマをどこまで掘り下げたのか、忘れそうですが、今回は、ありもしない予定を変更して、映画観賞記です。


攻殻機動隊 ARISE border1:ghost painを観てきました。

ちょっと時間が空いたし、1日って映画安いよな、と思って、映画館にいったら、攻殻機動隊やってる、と知って飛び込みで。



結果、本ブログが掘り下げたいテーマとかなりリンクして楽しめる内容だったため、書き留めておきます。



私自身は、攻殻機動隊シリーズを熱心に追いかけているわけではないので、シリーズの他作品の参照はしません。

ネタバレへの考慮も特にしません。

それから、観たところ、どうも、攻殻機動隊ファンへのサービス的な作品にも思えました。というのも、攻殻機動隊という作品群全体の時系列でいうと、今回の作品は、攻殻機動隊以前、という位置づけのようです。

観賞後、その手の感想を言っている方たちが多くいました。


ですが、本記事は、今回の「ARISE」単独を取り扱います。






あらすじは、追いかけないが、設定だけ確認。

基本的な設定として、登場人物の何人かは、いわゆる、アンドロイド、ヒューマノイドで、生身の人間に、電脳的なインターフェイスがあって、簡単に言えば、パソコンと自分をUSB接続して、情報をやり取りできるイメージ。

自分自身が情報であり、デバイス。





本作品も、そこからテーマが発生する。





テーマは、主人公、草薙素子の自立といってもいいかもしれない。


彼女の自立は、政治経済的側面と、彼女の実存的側面とにまたがった問題で、劇中の事件も、彼女(ストーリーに従っていえば、彼女のようなアンドロイドたち)の社会的権利をめぐって起きている。

その事件に関わる中で、彼女は自分自身の存在について、向き合うことになる。

このとき、両側面をつなぐものが、彼女の身体である。






例示がしやすくなりそうなので、適宜、二人称で話をすすめてみたい。
効果的かはわからないが。







あなたは、頸椎部にあるインターフェイスを通し、ネットにアクセスできる。

私が、私であることを、記憶の蓄積をヒントに、確認するように、あなたには、電子的なログがある。


そして、あなたは、ログを改ざんするウイルスに感染する。


あなたの、電子的なログは、身体制御とリンクしているため、例えば、視覚情報なども、改ざんされた状態で認識されることになる。





あなたの手もとに、一葉の写真がある。



そこには、幼いあなたと、若い母が写されている…




という視覚的な認識は、「母がいる」「母の顔」そういった情報の上に成り立つ。

つまり、その前提情報がすでにウイルスによってねつ造されたものである場合、視覚も、そのように認識する。




別の誰かがみたら、あなた一人しか写されていない写真かも知れないのだ。



あなたは、そのウイルスに感染してしまう。



あなたは、真実を見失い、そして、それを、欲する。




これまで、自分の存在の前提だったデータの信用がなくなる。


あなたは、何を信じていいのかわからない。


絶対性が欲しい。


ゆるがない情報。自らの存在をゆだねることのできる保証。









この状況は、似ている。



自分が何者であるかを、過去から構築していき、社会、世界との距離をはかり、ポジティブになったり、ネガティブになったり。

生きにくければ、自分を責め、問い直し、自分を構築しなおそうとする。あるいは、歩けなくなった自分の正当化にちょうど良い自分の構築。それらは、病気探し、自己のねつ造、いろいろな症状となってあらわれる。




生きる意味が欲しい。どんな疑問もよせつけない、存在の保証。







あなたは、ウイルスに感染し、よって立つものを失った。






そのとき、興味深い二つの方法によって、物語は進展する。







方法の一つ。


あなたは、頸椎部のインターフェイスを通じ、他人にアクセスする。


そう。共有されるものに保証を求める。


自分一人では自信の持てない認識を、他者にささえてもらう。僕もそうだよ、と言ってもらえる。








わかりやすい。



しかし、私は、これは危ういと思う。



共有が保証してくれる。ここには、多数決的な論理が働いている。

多いものが正義。そこでは、マイノリティが排斥される。



裏返れば、あなたを否定するのが多数決だ。




ただし、本作品のストーリー設定の巧みさがここにあり、インターフェイスでつながれた他者とは、死者なのだった。


つまり、ある存在が、死んだ、という固定的な状態に絶対性への回路を見出している。







しかし、私自身は、この設定にも、かすかな危うさを感じる。



他者との共有、連帯によって価値の保証を得ようとする。そして、その他者は死んでいる、という状況。


例えば、これは、先祖、伝統、歴史、への信仰、という構造に似ている。



わかりにくいだろうか。









個人レベルの状況を想像してみる。


例えば、大切な人を失った。そして、その人はあなたに遺言を残した。あなたは、それを、あなたの生きる意味ととらえて、生きていく。

例えば、大切な人を失った。その人はある病気によって亡くなった。あなたは、同じ病気で苦しむ人の支えとなることを、自らの存在理由とする。



美談的だし、よく聞くといえば失礼だろうか。




しかし、生きる意味に迷った時、これらの状況がねつ造される可能性があると、私は思う。


受験勉強ゲームでうまくいっている自分に薄っぺらさを感じてしまい、遠い知人がある病気で亡くなった、という状況をつかって、遠い知人が、大切な人、に格上げされ、医者を目指す理由を発生させる装置として機能させる医者志望の学生、とか。






誤解を生みやすい言い方になってしまっているが、私は、そういったねつ造自体を悪いと思わないし、健康な精神状態であるならば、ねつ造とも自覚されないだろう。




問題は、自分の認識を、自分で、ねつ造だろうか、と疑ってしまうことだと思う。


自分の生きる理由の都合のために、死者を利用しているのではないか?


そんな感じで、自問自答が始まる。


絶対性、保証、それらの確保ができなくなっている。






これは、死者を通して絶対性を確保しようとする場合の個人レベルの問題。








次に、もっと大きなレベルで考えてみる。



典型的なのが、ナショナリズムだ。



死者の絶対性。それは、規模が大きくなると、先祖、伝統といったものになる。



例えば、零戦に乗ってそして死んだ英霊。例えば原爆の被害者。彼らへの尊重と鎮魂が、日本という国への信仰につながる。



そして、ここからが、ナショナリズムの真骨頂という感じがするのだが、確かに、ナショナリズムは、あなた個人を救うシステムを備えている、と言っていいと思う。




例えば、戦後、焼け野原となった日本は、家族が休む家を建てなければならなかったし、お腹いっぱい食べられる食物を育てなければならなかった。



働くことは、国の利益だったし、それは、さらに言えば、天皇(日本における、ある種の、神さま)のため。


神の意志、国の意思、と、働く人の意志は、一直線で結ばれている。


つまり、生きる意味に迷わない。


どんな地味な、例えば、一日中、ねじ工場で、ねじを作ろうが、ボールペンを組み立てようが、中華まんの頭をねじろうが、それらは、家を支えるネジであり、教育を支えるペンであり、人々の腹を癒す中華まんなのである。



働く人は、誇りを持つことができる。




これが、絶対者、が機能するナショナリズムの効用だと思う。






もっと言えば、働く人とは、お父さんだった。お父さんは、国を支える、神と同一人物。


しかし、そうやってなしえた経済成長も、やがて、とまる。


実態すら追い越した景気はバブルとなってはじける。






生きる意味をまっさきに奪われたのは、お父さんだ。


そして、そのお父さんの子どもは、生きる意味の手本を見失う。

くたびれて、汗臭くなり、楽しくもない。






誰のために働いてると思ってるんだ!お前のためだ!




おんきせがましい、うざい、くさい、楽しくなさそう…







この状況の病理の具体化が、援助交際、と指摘する人もいる。

父と、子が、おかしくなってしまう。


さらに、援助交際が流行った時代に、オウム真理教のテロが起きていることも、示唆的に思える。

生きる意味を見失った者の暴走。



てきとうなことを言ってはいけないが、この時代、つまり、1990年代半ばに青春をすごした人に、いわゆるメンヘラが多い、というか、そこが、始まりな印象を受ける。








攻殻機動隊の観賞記だった本記事の風呂敷が広がりすぎている…





そう、自分の存在の保証、その絶対性の確保の方策、という話題だった。




映画では、他者(死者)との連絡、がその一つの方法として描かれていたのだった。


しかし、そこには、個人規模で言うと、ねつ造、社会規模で言うと、ナショナリズムの機能低下、という問題がありそうだ、と私は思う。




では、どうすればいいのか。








ちょっと、長くなってしまったので、エントリをわけます。




続きは、次回。


ちゃんと、書き、たい…









今日の、BGM、映画のエンディングテーマにしたかったのだけど、それは、次回のBGMにこそふさわしい、って感じがします。




どうしようかな。






今回は、サイバーパンクな話題があり、自己捏造、ナショナリズム、とガッチガチに硬質で、範囲も広大。




ただ、私たちが置かれている、社会状況、というもの。つまり、私たちが、映画の登場人物だとして、その世界設定にあたる話題を取り扱えたことは、ちょっと成果だったな、と思います。



なので、新しい、ナショナリズム、というか、あたらしい、日本の誇り、みたいなものは、案外こういう発想からかな、という動画にしてみます。愉快な映像です。












2013年6月18日火曜日

光と影に縛られるあなた




こんばんは。


最近、食べている。

つまらないものはいくら食べても満足しないし、おいしいものは適量で気分がいい。

そして、最近やりがちなのが、おいしいものをひたすら食うこと。

おいしいビュッフェとか食べ放題とか。



限界をこえて、さらに詰め込むと、食後、足や腕なんかが、ジリジリして、いいのかわるいのか知らないけど、栄養かなにかが、充満している感覚が得られる。


頭に血がいかず、ぼんやりとする。


そういったからだの状況を観察したりするのもけっこう楽しい。







で、前回は、なぜ自己執着してしまうのか、ということを今回のテーマにしようと予告しました。

そこには、神、が関わっているのではないか、と。




ところが、私の場合よくあることですが、次回以降に延期します。



ちょっとまだ、整理して書くには準備が足りない感じがしたので。

だからといって次、すばらしい読みやすさで書けるわけではないのだけれど。





それで、前回の記事にコメントやメッセージをくださった方がいて、うれしかったのですが、その中に、前回のBGMについてのものがありました。



スティーブ・ライヒはミニマル系などとカテゴライズされる現代音楽の作家なのですが、ライヒに限らず、また、音楽に限らず、芸術と精神のありようというのはとても興味深いものだと思います。


そういうテーマでも書きたいなと思っているところでした。



で、今回は、ライヒつながりで、彼の音楽を使用しているパフォーマンスアートを鑑賞してみようかなと思います。


























単調に思えるフレーズだが、微妙なズレを起こす音楽。

2人のダンサーはその音楽のズレと見事にシンクロしていて、美しい。





例えば、これをちょっと私の都合で、解釈してみる。






冒頭、カメラは引きでダンスを映している。


左右からのライトが、二人を照らす。
二方向からのライトは、二つの影を作るが、中央の影は重なって、陰影が濃い。



これを一人の人間の、精神のありようだと仮定して見てみる。



ダンサーは、ある時のあなただ。

人生のその時々で、あなたの気分も、価値観も、選択も、違ったかもしれない。

音楽が、あるいはダンサーが表現するように、そこには微妙なズレがある。

重複する影の濃い部分は、人生の様々な場面を経て浮き上がる、あなたの一貫性のようなものだ。


ずれたり、一致したりしながらも、時間が過ぎていく。

音楽も、人生も、時間芸術なのだと思う。





ところが、中盤あたり、カメラが寄る。



ダンサー一人にズームしたり、フレームから影がなくなる。



これは、あなた自身の一貫性の一つにすぎなかった、ある日のあなたと、また別の日のあなたが、分離している、と解釈できる。


ズームするのはカメラだけではない。


近づくにつれ、ダンサーが床を蹴る音、衣擦れの音、呼吸が聞こえる。




影を成すパーツでしかなかった身体が具体性、個別性をもって感じられるようになってくる。




そう、かつてのあなた、今のあなた、善のあなた、悪のあなた、戦うあなた、逃げるあなた、なんでもいいけれど、その時々で生身なのであり、美しいのは、その身体性。





come out.


現れる。





あなたが、現れる。

あなたは、社会と個人、とか、現実と夢、とか、いろんな角度から照射されることで、しばられ、悩み、その時々で、違った影を映し、それらを結んで、重ねて、できるだけ影の色を濃くしようとする。

それが、最大公約数的で、ブレがなく、社会性を保つ、自分だから。



しかし、その時々で、音をたて、肉を揺らして、息を吐き、動いていたのは、影ではない、生身のあなたそのものだ。

それが、come out する。




英語で、come outを実際に使ったことがあるが、掃除をしていて、汚れが取れたときなんかに、使う。

汚れがcame outした、って感じで。

日本語英語だと、何事か告白するときに、カミングアウト、という言い方をする。






アイデンティティだとか、価値観だとか、そういったものは、影でしかなく、あなたが何人いようとも、それぞれがあなた自身であり、結ぶ必要も、そろえる必要もない。


ライヒの音楽も、ダンサーも、ずれているのに、それがうつくしい。











そんな解釈ができる作品かな、みたいな。



もちろん、どう解釈してもいいのだろうし、私の解釈は一面的だと思う。


しかし、なにか素敵な作品なんかにふれて、これをだれかに伝えたい、というとき、私は言葉をつかう。


「いいよねー」


私はそれで済ませたくない。どこがどうしていいのか考えたくなる。

それが作品の価値を一面的にしてしまう恐れはあるけれど、頑張って伝えたくなる。



「考えさせられるねー」



どう考えさせられたのか言ってくれよ!








感受性という便利であいまいな言葉がある。





私は、誤解を恐れずいえば、感受性は言葉だと思う。

厳密な言葉を使うということは、網の目の細かいフィルターで、ものごとをすくいあげることだと思う。

自分のフィルターを通過するものごとをどう捕まえられるか。

私にとってそれは言葉。






とはいえ、「いま、私のフィルターを何かが通り過ぎた」という身体感覚が言葉以前の問題。




自分がいま、なにかに、違和感を感じた。




例えばそういうことは、意外と気づけなかったりする。



恋人の髪型がいつもと違うことを、目は捉えているのに、にもかかわらず言われるまで気づかず、「ああ、そういえば」みたいな。








身体に耳をすまして、厳密な言葉でつかまえる。


芸術はそれがたのしい。 



















美しいけれど硬い作品だったかもしれません。

あ、rosas と検索すると上の作品はヒットすると思います。

Rosas(ローザス)はベルギーだったかオランダだったかのダンスカンパニーです。





今夜のおやすみBGMは、ある意味真逆な、とことん柔らかくてストレートで美しいやつで。









2013年6月13日木曜日

ループする私と病 『私って…「と思う私って…≪と考える私って…{と、ここまで思う私って…




こんばんは。

前回の投稿から間が空いてしまいました。

海外から戻ってまだそれほど経っていないので、新しい仕事の雑事や、生活環境を整えるために100均に通ったり、そんな感じで時間は過ぎていました。

疲れました。

もっとマッサージに通いたいです。






最近は、あなたが生きる意味、という重たいテーマを取り扱っているところでした。





なぜ、生きる意味、というテーマに至ったか、その周辺の私の考えを振り返ると、




●うつには不治性がある。

●その不治性とは、うつが治るとうつになる、という特徴。

●なぜなら、あなたをうつにした環境が、うつから復帰したあなたを待っているから。

●その環境は、もっと言うなら、社会は、世界は、あなたの生きる意味や価値観やよろこびといったものとは無関係に存在している。







そもそもなぜ、生きる意味、といったものを探ろうとするのか。



●あなたの人生の選択の蓄積を線で結ぶことで、アイデンティティとよばれる、自分らしさがあらわになる。

●その自分らしさと、世界との距離が近ければ、元気に生きられる。

●逆に、ギャップが大きければ、納得しない魂のストレスが精神や身体を不調にさせる。

●そこで、自分に対する問い直しが図られる。

●これが、生きる意味の模索。

●それを行動的に具体化しているのが、例えば、旅人。






●なぜ、過去の選択を線で結ぶのか。

●自己執着があるから。




そんな感じで書いてきたつもりです。



構成も計画もないので、だいぶ理解しにくいかと思います。

もうちょっと上手に書きたい。









今回は、生きる意味、と並行するもう一つの大きなテーマ、自己執着、について考えてみたいと思います。







以前にも、少しふれたが、自己執着は、言い方をかえれば、自意識が強い、ということで、それは、ポジティブ、ネガティブどちらだろうと、自分にこだわっていることに、違いはない。
プラスかマイナスかではなく、数値的な大きさ。



●だから、ネガティブに自己執着している人に、ポジティブシンキングをすすめることは、逆効果でさえあると思う。

ポジティブ方向の自己執着が、はねかえってくるからだ。







そもそも自己執着とはなんなのか考えてみる。


多くの人が自意識を持っている。

とりわけ、うつのひとは、自意識が(負の方向に)強いと思う。

自分の症状を開陳したり、死にます、といってみたり、また、そのような自分への視線も自意識的で、かまってちゃんでごめんなさい、とか、あんなことを言ってしまってバカみたい、とか、でももう元気になったのでがんばるぞ、とか。




これに対し、




あなたの魂の叫びなんて、あなたの病状なんて、誰も気にしちゃいないよ、気にされてると思ってるの?ずうずしいね。




そういうふうに、だれかの自己執着を指摘することは案外簡単だと思う。



なぜなら、そうやってかまってちゃんを批判する動機が、実のところ、

●『「私はあんなふうに自己執着していない」と思われたいという自己執着』

によるものかもしれないからだ。




●つまり、自意識過剰と思われるのが許せないほどの自意識過剰。





あーー、言葉遊びじみてしまう。


でも結構重要だと思うんだ。





「うつの症状とは、うつが治るとうつになること」


「自意識過剰だと思われるのが許せないほど自意識過剰」



例えば上の二つの文章はどこか似ている。



専門的なことをいうのは正確性に欠けるかもしれないのでひかえたいが、たぶん、論理学で言う循環定義のような状態だと思う。


つまり、Aの定義にAが含まれてしまうという状態で、無限に言及し続けてしまう。



自意識過剰な人が陥りやすい脳みその状態も、こういう感じのように思われる。


●『私って…「と思う私って…≪と考える私って…{と、ここまで思う私って…}≫」』



金太郎あめみたいに、どこを切っても自分が出てくる。

箱の中に箱があるように。

永遠の合わせ鏡。


終わりがない。


自分はしつこいほどに自分で、うつはどこまでも追いかけてくる。




●自己執着もうつも、この構造をしている。








今回は自己執着の構造について、なんかくどく考えてみました。





●もし、うつ、と自己執着が、同じ構造をしているのなら、自己執着の解消は、うつの解消。あるいはその逆、ということになるのかもしれません。









次回以降は、なぜ、自己執着してしまうのか、というところを考えてみたいと思います。





私は、神、が関わっていると思います。

なんか、あやしい勧誘とかしませんよ。

たぶん、日本人が無神論者、というのはうそだとおもいます。



そんな感じで、また。









今日のBGM


ループする自分。ループする病。

ループする音楽の気持ちよさと奇妙さ。









2013年6月2日日曜日

5月の記事ダイジェスト




5月中に書いた記事をダイジェストにした、つもりです。

ダイジェストとはいえ、10記事分なので、結局長い。

もっと、お互いが労力を必要としないスタイルも模索しようと思っています。



読んでくださってる方、ありがとうございます。



以下、各記事の要約、のつもりです。















いま、この夜は、私だけのもの

嘘をついて、逃げよう。

自分と向き合うとか、問題と向き合うとか、そんなことより、おいしいものを食べて、好きな本を読んで、ふとんにくるまろう。

必要なのはあなたを守る、嘘と逃げ道。そのための、情報。


夜はやさしい。

真実も嘘も関係なく、あなただけをつつむだろう。

それを孤独と呼ぶのなら、私は夜のような文章を書きたい。






はじめに

はじめまして。

はじめまして、という独り言は存在しない。

あなたがだれで、私が何者か、どうだっていいのかもしれない。

けれど私には、言いそびれた言葉がたくさんあって、言いそびれた相手はどこにいるのかわからない。

後ろ姿が似ていたので声をかけると人違いの旅人だった。旅人と話していると、まるでその人だった。
その人はうつ病だった。旅人は陽に焼かれ、大きなバックパックを背負っていた。
2人は似ている。

うつと旅は似ている。

だから、この場所で、はじめまして、と言うことにする。


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やりたいこととやりたくないことの天秤のバネが狂っていないと生きられない


初めての発作と、初めての精神科と初めての抗鬱薬。

病名にこだわるという病気。

病気を集めるという病気。

「仕方ないよ、病気だから」と自分に言いたい、誰かに言われたい。

それは言い訳の病。

言い訳することに良いも悪いもない。

重要なのは、あなたが言い訳を必要とする状況にあるということ。

逃げるべきは、言い訳がなければ休むことができない状況。






彼女をさがさない

彼女ができた。

彼女はながくうつ病だという。

私たちはつきあい、そして別れた。

彼女がどこにいるかわからない。

やり直そうとは思わない。

ときどき、彼女の今をのぞけないかと思う。

何をしていても、どういう状態でもかまわない。どこかにいるなら。

私自身は、彼女に、のぞいてほしいと思うだろうか。






新型うつ病は治らない、ような気がするので


自分と世界との関係。

それを表すものの一つにインターフェイスがある。

ドア、インターフォン、ケータイ、檻、メガネ…人によって何がインターフェイスになっているか、また、そのあり様も異なる。


そんなことを考える行為が私にとっての、うつへのアプローチの一つ。

病気へのアプローチはもっと、自由度が高くてもいいのではないか。

だから、お詫び付きで、言ってみることにする。

新型うつは治らない。

その理由はあらためて。






ブログのネーミングと自分語り。

私の、いわば青春の、ある夜の出来事。

カネダとの別れとメロディの降る夜。

weezerの「the good life」。





病気が真実か嘘かはどちらでもよい。

病名を欲することには、危険性がある。

それは、自分の状態の信憑性をめぐるババ抜きゲーム。

嘘か本当か。それはどちらでもよい。

共通するのは、自分の状態を認めてもらう必要性がある、ということ。

つまり、休息を欲しているということ。

休息が必要なのに、休息の許可をめぐって、嘘か本当か、というゲームに縛られると休息にたどり着くことができない。

休息の許可の申請は、社会に対してと、自分自身に対してなされる。

社会に許可申請するのは、自分自身の許可を得た後になることが一般的であるだろうから、問題は、まず、自分からということになる。





躁、うつ、買い物の関係

私の躁状態について。

amazonをはじめ、自分の購買履歴を振り返ると、6月前後に買い物が多かったり、大きめの買い物をしていた。

それは、私が躁っぽくなる時期と重なっている。

特別な買い物にかぎらず、自分の調子が良かったり、悪かったり、いずれにせよ、特別なときには、買い物の様子が普段と違うことがある。

自分の状態と、お金の出入りの相関はチェックすると興味深い結果が出るかもしれない。






あなたが生きる意味と、アイデンティティの罠

自意識の強さとうつには関係がある。

自意識が強い、ということは、自己評価が高いか低いかに関わらない。

自分が好きだろうが、嫌いだろうが、自分にこだわっている、という意味で自己執着している。

自己執着の度合が、自意識の強さ。


自分の歴史に存在する、分岐点。

それらをつなぐ線がアイデンティティ。

アイデンティティという線は、過去から未来へ伸びていき、これから立ち止まる分岐点では、アイデンティティが選択を決定しようとする。

自己執着、自分らしさから、納得のいかない選択ができない。

しかし、あなたが生きる世界は、あなたらしさを無視して存在している。

そこには、生きる意味が見いだせない。

新型うつの不治性はここにある。

元気になっても、復帰先に生きる意味がないからだ。

自分らしさとは何か。生きる意味とは何か。






調子悪い。横になります。

個人的に棚上げにしていた問題に触れてみたら、どうにも調子が悪い。

マッサージを受けに行きたい。

そんなぼやき。








以上、5月分のダイジェスト記事でした。

今後もお読みいただけたら、と思います。















BGM


こういう歌って、重いのだろうか、調子よくなるのだろうか。


2013年6月1日土曜日

旅と、うつと、かつての約束




こんばんは。今が何時だろうと。


調子悪かったんですけど、いろいろ無視してたら、時間は過ぎていて、問題と距離を取れた感じです。

社会人としては、ダメなんでしょうけど、死刑になるわけでもないし、へらへらと過ごしている感じです。



ここ最近、テーマに取り上げていたのは、生きる意味、でした。


前々回は、アイデンティティという概念を例にあげ、



選択の連続


自分らしさ


自己執着


自分らしさを保障しない世界への違和感


うつ


生きる意味を問う



かなり、乱暴だが、そういう感じのことを書いたつもりです。

それで、予告的に、




ひとはなぜ自分らしさを求めるのか、

生きる意味とは、




をテーマに書きたいと言って、私は、調子悪くなり、今回に至りました。


で、生きる意味、ってやばいテーマというか、こんないちブログごときが解き明かせる問題ではないのですが、思うところを書きます。

だけど、ちょっと、一度テーマを変えて、次回以降に持ち越します。





今回考えてみたいテーマは、うつと旅、について。



これは、私の中で、生きる意味を問う行動の具体例かもしれない、と思うところがあるし、さらに言えば、うつに対して、効力があるかもしれないとさえ思ったりしています。


今後取り上げる、生きる意味というテーマや、うつへの具体的なアプローチ方法を考える上での補助線にもなりうると思い、今回のテーマにしてみようと思います。






とは言うものの、どこから書いたらいいのだろうか。







私は、昨年から、今年にまたがって、タイに半年ほど住んだ。

仕事の事情もあったし、せっかくのタイなのだからと、休暇もからめたために、長期滞在となった。

以前の記事でも触れたが、そこで多くの旅人と出会うことになる。

世界一周の最中のひと、東南アジアを数か月というひと、1か月タイでマッサージを習う人、数日の休暇というひと、ノープランというひと、世界二周目というひと、様々だった。



そういうことをする人には、当然だが、日本では出会いにくい。いないのだから。
旅先には旅人ばかりいる。あたりまえか。


しかし、珍しい人種である彼ら彼女らとは、とても気が合った。

いろんな国をまわり、いやがおうにも、色んな人とコミュニケーションをとる必要があるから、コミュニケーション能力が高いのかも知れないとは思う。


だけど、決してそれだけではなく、なんというか、くさい言い方になるが、魂の色や形や傷が似ている、そう感じた。



手に職、と言われる仕事、ノマドワーク、など例外はあるかもしれないが、長期で日本を離れることは、履歴書的に不利であることが多く、経済的にも負担は大きい。

仮に世界一周をするとすれば、100万円ではかなり少ないと思われる。


では、彼ら彼女らは、そういうデメリットやコストをものともしない、欲求に忠実で、行動的で、いわばリア充なのか、と思うと、案外そういう人は少ない。


行動の連続ではあるし、やりたいことに素直でなければ、そういうことはできない。

しかし、彼ら彼女らは、とても内省的、というか、旅がしたいからしているかというと、それほどシンプルでもないように見えた。


自分探し、というと手垢まみれで、恥ずかしい言葉でさえあるが、旅人は、日本でわからなくなってしまった、自分の生きる意味を模索するうちに、とりあえず世界へ、という感じでやっているひとが多いんじゃないかと感じた。



行動の動機を迷いなく答えられる人には、あこがれもあるが、一方で私は少しいぶかしんでしまう。







なぜ、それを選んだのですか?


そりゃ金のためさ。

長年の夢だったからね。







金のためさ、


親のためさ、


老後のためさ、


夢のためさ、



そういうことを簡単に言うことができない人は、旅にでたり、うつになったり、芸術を志したり、犯罪をしたり、ということになる傾向があると勝手だが想像する。





シンプルな答えに、あきらめ、を感じたり、自分への嘘を自覚したり、そういう傾向が、旅人や、うつのひと、一部のひとにはあると思う。







なぜ、それに、あきらめ、を感じる?

もっと挑戦する自己イメージがあるからだろう。





なぜ、自分へ嘘をついたのだと感じる?

それは、自分との約束があると思っているからだろう。






「おれは、まだ、なにも何も成し遂げていない。」


「10年前のあたしが泣いてる声がする。」




そうやって、かつての自分との約束を果たそうと、まったく疑いようのない、絶対の真実はどこにあるか、と世界へ旅に出る、あるいは、自分の内側の世界をさぐるようになる。





旅人はそういう人間が多いと思う。
うつのひとも。







旅は真実に至るまで、終えられない。


旅には動機がないに違いない。

旅の最中で、絶対に揺るがず、誰からも疑問に思われない、旅の動機が見つかることを、旅人は夢みている。






あるひとは、

この恵まれない人々の生活を救いたい、




またあるひとは、

ヨガを極めたい、




そうやって、そのひとの旅の終わりにたどり着こうとする。














あえて、言ってしまおう。



それは、求めていた絶対の答えではない。









恵まれないひとの助けになろうとする、そうしたいのはなぜ、その土地なのはなぜ、なぜその方法で、なぜ、なぜ、、、


そうやって、自分で自分を問い詰めることができる。


その時どうこたえるのか。






●それは、あきらめ、だと認識する。旅は終わりなのだと。もう、旅してばかりもいられないんだ、と。
そして、何かに身を投じる。あるいは社会へ帰る。それはあきらめから始まる社会への再参加かもしれない。


●過去をねつ造する。
例えば、「小さいころ観たドキュメンタリーが忘れられず、それで。」と、自問するまで、忘れていたような記憶にズームする。今まで、気にも留めていなかった過去のあれこれを、あらためて大きくとりあげ、線で結び、それが自分の夢だったのだ、と語る。

いつだったか、ニュース番組が、超難関中学の合格発表日を取材していた。

「将来は何になるの?」
「弁護士です」
「どうして、弁護士になりたいの?」
「・・・えん罪のひとを助けたいから」

私は酷なシーンだと思った。
その子はゲームにのっただけだと思う。

夢は何か、という不可能性のかたまりのような質問。
その子は、身の回りにえん罪がなかったか探すかもしれない。今後えん罪を探すようになるかもしれない。





●これはやはり、答えではなかったのだ、と旅を延長する。
こうやって、旅それ自体が目的になっていくひとも多いと思われる。自分探しが自分になる、というような構造か。






まるで、否定的な書き方をしてしまった。

決めつけのような解釈でもある。申し訳ないと思う。
旅先でしか見られない、美しい景色や、かけがえのない出会いもあるだろう。

世界は、人間の都合とは無関係に、そこにあるのだけれど。






旅人に対する私の勝手な想像、解釈。

興味深いのは、きっと、この解釈が、うつのひとの、少なくとも一部のひとにはまるまる適用できると思われることだ。



だから、私は旅人にシンパシーをおぼえずにはいられず、許されるなら、彼ら彼女らも私に共感を示してくれた、と言いたい。






ここまでの考察で、ひとまず、結論を出すなら、



うつ、旅、には、

●かつての自分との約束を果たそうとする

●また、絶対の答えを探そうとする、

という共通点がある。



そして、それが、

●旅を終えられない理由になりえ、

●また、うつが治らない理由にもなりうる。









このへんで、終わりにします。














ここからは、蛇足というかそんな感じです。






















旅がうつに良いかどうか、おいそれとは言えない。


急激な環境変化はさける、というのが、治療上のセオリーとも聞く。






ただ、私は思うのだが、世界には、まったく違う価値観で動いている社会やコミュニティがあり、そこに生きる人びとがいる、ということを知るのは、あなたの気を楽にさせる可能性があると思う。



新型うつ、とよばれるような、自分の納得のいかない環境に拒否反応がでる場合、回復を試みても、結局は、時間をおいて、体を休めただけで、魂とそれをとりまく環境はかわっていない。




復帰先がうつにさせる。どうどうめぐりの不治性。




ならば、その環境から逃げることが大切だと思う。


全く別の世界を自分に用意してあげる。



いま、あなたがいるそこだけが、すべてではない。答えが見つからなかったとしても、逃げこんだ先は、答えをさがさなくてもいいという価値観の世界かも知れない。







旅程や金銭的なこと、環境など、具体的になるけれど、


まず、期間は長いほうがいいと思う。

数日では、日本で温泉旅行するのとさしてかわらないかもしれない。



2週間程度だと、旅先になじんでいないので日本の良さが目につくと思う。
実際、日本はすごい。あらゆるインフラの完成度が高く、生活環境の精密さは異常にクオリティが高い。


私自身は2か月ほど経った頃から、物価の相場感覚が身に付き、コミュニケーションの勘所がわかってきたような感覚を得た。


長期間となると、それだけの生活費が要る。

また、滞在先にたよれる医療機関があるかも調べる必要がある。





私自身は、タイ東北部、特にチェンマイに長く滞在したが、物価は安く、月に6~7万あれば、まずまずの生活ができると思う。

タイ式マッサージ、ヨガ、といった身体性の文化も充実しており、スクールなども多いので、習いに通うのもいいと思う。

ベジタリアンレストランなど、タイの食文化だけでなく充実しているし、料理教室もみかける。




なんとなく社会とのつながりを意識させる行為はあったほうが精神衛生にいいのでスクールに通うなどは良いと思うし、なによりも、異国の地で、不自由な言語環境で、身体を観察する、という経験は、ハマる。私はハマった。


バガボンドという漫画の、佐々木小次郎が、聾唖、という設定で、語り合う相手が自分の身体感覚のみで、最強と言われる剣士に育つように、街中に日本語がなく、タイ語もほとんどわからない、必要な英語程度、そういう環境にいると、脳内が静かであることに気づく。





うつを旅先は受け入れてくれるだろうか。



わからない。それは不安だ。




日本人は多い。欧米人も多い。




私は、多少自分を偽って行くぐらいがちょうどいいと思う。


日本に、仕事に、疲れちゃってね、バケーションにきたよ。

そうやって、クラスメイトや、ゲストハウスやどこかで出会う人と話したらいいと思う。

旅人はやさしい。







これは、あくまで、実験的な想像です。



実際に行って、調子が悪くなる場合もあるのかもしれない。

責任はもてない。


けど、まあ、悪くないと正直思っている。



チェンマイの情報なら、多少あるので、気になる人は気軽にきいてください。













ちょっと助長気味BGM





2013年5月28日火曜日

調子悪い。横になります。





前回は、生きる意味、自意識、うつの不治性について書いた。


今回は、生きる意味、自分らしさについて書く、と予告したけれど、調子悪いです。






棚上げにしていた問題に徐々に触り始めているので、ぐったりです。


その問題に関わる人の中には、私にとって大切な人もいて、その人の誕生日だったりしたので、声をかけたい、声をかけるからには、触れとくべき話題もある、そういう感じで、動いております。


何かに向き合ったからと言って、スッキリするわけでもなく、日常が重くなるだけだったりするけれど、こぎはじめた船は、沈めるか、どこかにたどりつかせるか、そんな感じで、傍観者のように、なるようになれ、と取り組もう、と、思って、います、が、だるいっすね








ここから先は、テーマがそもそも抽象的で、むずかしいので、適宜、私自身の自分語りをさせてもらって、その具体例から、骨組みを取り出す感じで、なにか、書けたらな、と思っています。


が、どうにも疲れて、横になりたいかんじです。







マッサージうけにいきたい。



私はタイ古式マッサージが好きです。


ゆったりしたリズムで、深い圧を、2時間くらい、至福です。


今度、マッサージについても書きます。好きなので。









今夜はこんな感じで失礼します。









おやすみBGM

シガーロス/Glósóli

後半、ややせかすが、このくらいの盛り上がりは好き。


2013年5月26日日曜日

あなたが生きる意味と、アイデンティティの罠




前々回の続きを書けていない。

新型うつ病について思うところを書いて、自分がうつ状態であることを認めるかどうか、をテーマに次回は書く、みたいに予告した。


何を書こうとしたのか。

たぶん、自分が自分をどう見ているか、を書こうとしたのだと思う。



要は、自意識、ということだ。




さらに、それ以前の記事で、インターフェイスのありよう、について書いた。

そこでは、自分と世界、という次元をつなぐインターフェイスが人によって異なると書いた。


例として、ひきこもりのように、インターフェイス(自室のドア、ケータイといったもの)を可能な限り閉鎖していき、その究極は、完全な隔離状態、というか、世界を自分だけにしてしまう。


あるいは、逆方向の究極状態として、インターフェイスを解消し、自分と世界の境界を失くし、自分がいなくなる。自分がいなくなる、というのはイメージがしづらいが、例えば、鏡を見ても映った人物を自分と認識しないとか、他人の経験と自分の経験の区別がない、とか、だいぶすごい状態なのではないかと思う。



で、自意識のありよう、についてだけれど、うつ状態のひと、うつになりがちな人、というのは、自意識が強いのだろうと思う。



自意識過剰、というやつ。

自意識過剰、という言葉は、どこか一人歩きしていて、使いづらい言葉だ。



例えば、鏡ばかり見て、髪型をよくチェックする人なんかを、自分好きだねー、自意識過剰なんじゃないの? みたいに使う。



しかし、私は思うのだけど、自分が好き、というひとだけが自意識過剰なのではない。


自分が嫌い、自分なんか消えてしまえばいい、そういうことを言う、一見すると謙虚とも思えるひとも、自意識過剰なのだと思う。



なぜなら、好き、というプラス方向か、嫌い、というマイナス方向かの違いはあれど、自分に執着している度合が強い、という意味では一緒だから。


数値で言うなら、絶対値が大きいという意味で、同じなのだと思う。


自意識過剰というのは、自己執着の度合が強い、ということだと思う。

自分が好きか嫌いかは関係がない。




自分が好きで好きで、周囲から煙たがられるようなひとも、自分が嫌いで嫌いで死んでしまいたいという、謙虚に思われるひとも、ある意味では、等しく、エゴが強いのだと思う。




エゴが強いことを非難したいわけではない。

私自身はどちらか言うと、エゴが強くて自己評価の高いひとが好きだ。


あまりに身勝手な振る舞いが、私のデメリットになるようだと困るかもしれないが、言いたいことを言い、やりたいことを我慢しない、そんなエネルギッシュなひとと一緒にいると、こちらまで元気になってくる。

それは、私たちを縛る、決まり事や、社会の矛盾や、私たちの元気を奪う物事に対して、風穴を開けるような、ぶち壊してくれるような、そういうエネルギーを感じるからだと思う。





自意識が強いこと、エゴが強いこと、それ自体に良い悪いはないと思う。それはある種のエネルギーのようなもので、それがどこに向くかの問題。

毒にも薬にもなる物質があるようなもの。





ただ、自意識の強さと、うつ、はかなり関係が強いと思う。



アイデンティティ、という考え方を例に考えてみる。この言葉もかなり使われる言葉だ。

自己同一性、などと訳される。




自分が自分であること。

確固たる自分。





そういう意味で使われる言葉。


一見すると、立派な感じがする。





だけど、私はこれほど迷惑な概念もないと思う。




例えば、過去を振り返ってみる。

自分が歩んできた人生には、大なり小なり、選択をせまられる分岐点があったと思う。

その都度、どちらかを選んで今に至る。



強い意志を持って選んだ選択もあるだろうし、そういう道筋を「選択と決断の連続だった」と豪語するひともいるだろう。


あるいは、他人や時間に流されるように、選んできたひともいると思う。





そして、それらの分岐点を、過去から現在に向かって、線で結んでいく。


この線が、アイデンティティだ。



「私に意志などはなかった。ただ流されるがままの、一貫性のない曲線だ」

その場合、選択肢に対して、意思をもたない、という一貫性がアイデンティティ、ということもできるかもしれない。





この、線、一貫性、ここに、罠がある感じがする。




過去から現在までの分岐点を結ぶ直線は、やがて、現在を追い越し、未来にむかって、伸びていく。


これから、将来迫られる選択肢の前で、どちらを選ぶかは、過去からのびる線が決める。


つまり、その選択が、今までそうしてきた、「私らしさ」だからだ。


逆に言うと、「私らしくない」、選択肢を選びづらい、ということ。


また、私らしさを意識することは、自己に執着すること、過剰な自意識を持つことになる。






ここで逃げるなんて、私らしくない。


私らしい仕事ってなんだろう。


そもそも私ってなんだろう。


私は何がしたいんだろう。


私の人生って、本当に私の人生だろうか。




こういった疑問は、人生に、自分に、真摯であろうとするほど、深みにはまってしまうと思う。






例えば、嫌な仕事から逃げたくて、嘘にせよ、本当にせよ、体を壊したとする。






自問してみる。



なぜ、仕事が嫌だったのか。





自答してみる。



その仕事は、替えがきく。

私でなくてもいい。

つまり、私は取り替え可能な存在。

私はこういうことをして過ごすために生まれてきたのだろうか。

そもそも私は、何のために生まれてきたのだろうか。






そうすると、体を休めても、復帰する先は、私が生まれてきた意味を無視している。

結局、体を休めても、魂は納得しない。


そう、魂が納得してくれない。




人は、なぜ、自分らしさを求めるのか。




今回は、自分らしさを求めてしまった結果、魂が納得しないところでは、生きていけなくなってしまう、ということについて書きました。


次回は、自分らしさ、自分が生きる意味、について考えてみようと思います。






では、また。













今回は、重いテーマを扱ってしまいましたが、普遍的で、共感してくれるひとも多いのではないかと思うんです。

口直しになるようなBGMはあるのかな。

口直しではなくて、生きる意味を探ろうとする、そういう作品はいっぱいあると思うけど。

たぶん、音楽に限らず、ある種の芸術は、生きる意味を考えるその過程で生まれたりすると思うから。







今日の記事の口直しBGM、思いつかず。

なんかひきずるテーマだから。









この気分を助長するBGMならたくさんありそうだけど。

誰にも、きっと、そういう曲があるのではないでしょうか。







私は、どの曲をかけようかな。





















ちょっと青臭すぎて照れる選曲になるので言い訳しておく。

選曲の理由についてだけど、歌詞。




”PKを決めて英雄だったあいつが、今じゃ、ちっちゃな町の郵便屋さんさ”

”とてもしあわせなはずなのに、なぜだか、なんでか、涙が出るよ”

”ああ、僕は、何か、やらかしみてみたい…”




これは、明らかに、生きる意味を問うて、「君、それでいいの?魂は納得しているの?」という態度で歌われている。

そして、僕は、僕にしかできないことをやらかせないか、と。



生きる意味をテーマに作品をつくるアーティストは多いが、そういったテーマは作品内で表現されている。
アーティストなのだから作品勝負。当然だ。



しかし、このバンドは、自分たちの「信者」となったオーディエンスに対して、「僕は、君の生きる意味ではない。君の生きる意味を見つけてあげられるわけでもない」そういう態度をとろうとする。


つまり、作品の外でも、テーマをひきずっているということになる。



その結果、と言っていいかわからないが、このバンドは活動が滞っているようだ。

音楽性というよりも、活動する姿勢において重要なバンドであるとは思うのだが、抱えているテーマが重かったようだ。






助長BGM





銀杏BOYZ/青春時代

※記事内のプレーヤーで動画が再生されない場合は、プレーヤーの「youtube」をクリックすると、youtube本サイトで再生されるはずです。

躁、うつ、買い物の関係




今回は、前回の続きで自らのうつを認めるかどうか、という内容になるつもりなんだけど、どういうことを書こうとしていたか、なんかわからなくなってしまった。



おしまい




アイデアを忘れてしまったのか、そもそもノープランだったのか、それすらわからない。
書いてるときは、頭の中が、それなりのテンションをもっているので、なんとなく書けるような気がしているのだけど、時間を置くとその時の状態に戻れない。

ちょっと適当なことを書いて、ワンクッション置きます。


そもそも、このブログは1記事あたりの文字が多くて、読む人に負担だと思われる。

振り返ってみると、私自身、調子が悪かった時期は、本が読めなかった。
本来は活字好きで、何かしらの本を読んでいるのが日常だったのだが、まったく読む気がしなかった。


とはいえ、始めたばかりのブログで、できるだけ早いうちに、コンテンツを充実させておきたいな、とも思うので、とりあえず、たくさん書くつもりです。


もし、内容に興味を持ってくださっていて、しかし、読むのが負担だという人、ごめんなさい。調子いい時に、読んでもらえたらと思います。

また、できるだけ定期的に、ダイジェスト版、みたいな、そういう記事を作成するつもりです。たぶん。





我ながら、なんの目的があって、こういうブログを書いているのか、と思う。


動機、というのは、私の大好物的なテーマなので、そのうち書きます。


今のところは、ただ、単純に、精神的不安定なところがあるので、つながりを求めた、あるいは、手を動かす作業を生活に取り入れて、嫌なことから遠ざかるため、そういう自己都合です。

ただし、書くものは読まれるもの、というスタンスなので、書くからには、読まれるに値するものを目指したいですけれど。





ところで、個人的なことなのだけど、今の季節は私は躁になる傾向がある。

特に医者に相談したわけでもないし、基本的に動ける状態ではあるので、ひどく困るわけでもない。

私の躁状態、というのがどういう状態かと言うと。




歩く速度が速い。やや前傾で歩く。

頭が言葉でいっぱいになる(ような気がする)、脳内で処理するのがもどかしい感覚が続くと、ふとしたときに、独り言として口から考え事が漏れ出る。

街中で、気になるものを目にとめると、突っ込みを入れたい感じになる(口を突いて出ることもある)。

大きい買い物をする。




特に興味深いのが、「買い物」。


家計簿などをマメにつけていないので、参照できるのは、通販のログなのだけど、よく利用する、例えば、amazon、楽器の通販、書籍の中古通販、などの過去のショッピング履歴を検索してみると、明らかに、6月前後に買い物が偏っている。


元気だから買い物をするのか、買い物をするから元気になるのか、お金のめぐり方の問題なのか、結論はまだ出せないけど、自分の調子と買い物、あるいはお金の出入りとの相関は、興味深い結果があるかもしれないので、家計簿をつける方は、チェックしてみてもいいのではないでしょうか。



私の場合、買い物がストレス解消になっているのは間違いないとは思います。

必ずしも、高価なものや、ずっと欲しかったものを買う、といった買い物である必要はなく、例えば、100円ショップで、こまごまと、普段は買わないようなグッズを買ったり、というような時というのは、元気か、ストレスフルかはともかく、普段とは精神状態が違うときである、そういう傾向が私にはあります。




では、また。









口直しのBGM

なんか、静謐,それでいて、ポップ、曲も声も、表情が良く変わる、しかし、その人。
そんな感じ?




レジーナ・スペクター/small town moon


2013年5月25日土曜日

病気が真実か嘘かはどちらでもよい。




前々回、新型うつは治らない、ということを書いた。前半では、自分と世界のインターフェイスについて書いた。

前回は、本ブログの『the good life』というタイトルについて私の過去を書いた。


あいかわらず、構成のよくわからないブログになっていて、かといって、日々の日記でもない。

もうちょっとうまくまとめられないかと思う。そのうち、考えをコンパクトにまとめてみたいのだけど。


で、新型うつは治らない、とかインターフェイスとか、自分語りとか、一応私の中では関連が強いのだけど、それをわかりやすく書けるだろうか。



構成、というと大げさだけど、順番かな。


どういう順序で書くといいのかな。



新型うつ、から書き始めて、精神を病むことの症例というか、ある特徴としての自分語り、あるいは、自分語りが示す人間性とうつの関連、そんで、その対処のヒントとして、インターフェイスの話題。


みたいな感じだろうか。


でも、そもそも、新型うつ、というのをどう扱ってよいかわからない。
よく言われる概要は知っている。



嫌なことに対すると症状が出る。そうでないときは大丈夫。とか。



私は以前の記事でも書いたが、精神科に通った。
診断当初は、特に何も病名などは言われなかった。

病気と名付けることにひそむ罠のようなものがあるのではないか、とも書いた。



その後、通院を続けているうちに、当時通っていた大学に、通院したとか何か申請すると、医療費が負担される制度がある、と言うのを聞いて、貧乏学生の私はさっそくそれを実行した。


そこで問題、というか、病院側には大学提出用の書類を書いてもらうのだが、診断名を書く欄があった。

私は何でもよかったのだが、確かに、なんと書くつもりだろうあの先生は、と少し興味深かった。


経過報告と、薬の微調整をし、待合室で会計と書類の受け渡しを待っていると、再び診察室に呼ばれた。


医師は、あくまでも、便宜上書かなくてはならないから「うつ病」と書きますが、気にしないでください、というようなことを言った。



私は薬で結構調子が良くなっていたし、病名をはじめ、言葉で病気へアプローチしないと決めていたので、病名は何でもいい、気にしない、と答えた。






「あなたはうつ病です」という宣告に、どういう問題が起こりうるだろうか、と想像してみる。







自分をガチガチに縛って歯を食いしばって、胸を押さえながら、生活してきたガンガンにうつだった人は、「うつかよ、もうだめだ」と、バッタリ倒れるかもしれない。


これとは実は近いような、紙一重のような気もするのだが、逆に、「これで休める」と倒れる人もいるかもしれない。





ちょっと、斜めに想像してみる。


「うつかよ、もうだめだ」と言いながら、内心で「これで休める」「これで診断書ゲット」という人もいるかもしれない。


そして、薬は確かに効く、しかし、元気になって活動しなくてはならないことや、場所は、その人を疲弊させた原因のような場所。

これまでに休んだ気まずさや、ブランクを取り戻さなくてはならない不安も大きい。

休む理由が欲しくなる、それを探す、なんだか頭痛がする、薬の説明には「頭痛が出る場合がある」と書いてある、これは薬が合っていない、病院へ行こう、まだだめみたいだ。







仮病とか詐病とか、本当に苦しい、とかその違いはこの際重要視しない。



そこは本人にしか知りえない領域で、病気のフリをせざるをえない孤独だって苦痛だろうし、本当に苦しいのに嘘だと思われ理解してもらえない苦痛もあるだろう、けれど、それは計りようのないもので、逆に、苦痛を誰かに理解してもらえている、ということだって証明不可能なわけで、「あなたのつらさは理解できる。ゆっくり休んでね」と言う人の本心は疑ってしまえばいくらでも疑える。




嘘か本当か、みたいなゲームをここに持ち込んではきりがない。


ジョーカーとそうでないカードを、裏向きに2枚出されて、ババはどっちだ?と言われても、答えは出ない。
相手が、こっちがジョーカーだよ、と言っても、裏をかいて、いやいや、裏のまた裏で、と無限に疑うことができる。



これが、病気の症状を見極めるゲームだったら最悪だと思う。



本当なのだと言いたい人は、いかに信じてもらえるかと、具合を悪く見せなければならない。

信じてもらうことに疲れてしまえば、孤独に闘病するより他ない。


特に、本当にギリギリの人や、器質性のうつなどをかかえている人が、この「うつ病ゲーム」に巻き込まれてしまうことは、かなり危険だと思う。


本当か?本当だ。
そうやって、病気を大盛りにしたり、あるいは、無理矢理健康を装ったり。

そうやって、適切な治療や必要な環境から遠ざかってしまうからだ。




だから、私は、うつ病をはじめ、精神を病んだ状態の人にとって、仮病、詐病、真実、嘘、そういう見極めは必要ないと思う。(医者には重要なことだと思うが)



ではどう考えればいいのか。



新型うつにせよ、うつにせよ、仮病にせよ、共通しているのは、「休息を必要としている」という部分だと思う。


とりあえずこれを前提にして考えてみたい。



話を分かりやすくするために(わかりやすくなるかな?)、「個人」と「社会」と次元を2つに分けてみる。




まず、「休息を必要としている」という前提の状況を、社会が認めるかどうか、個人(その人自身)が認めるかどうか。
とりあえず4通りある。

A:社会が認め、個人も認める。

B:社会が認め、個人は認めない。

C:社会が認めず、個人は認める。

D:社会が認めず、個人も認めない。




A:休むことができる。基本的に状況は悪くない。

ただし、復帰した先が原因である場合の、新型うつは、解決には至らない可能性がある。
個人がどこまで認めるかにもよるが、社会福祉のサービスを受ける場合もあるかもしれない。




B:Aの応用形に感じられる。というのも、新型うつの場合、治った先に問題があるので、この状態にある個人は、治った後を先回りしている可能性があるかもしれない。

自分に厳しい、などのパーソナリティによるのであれば、医師の適切な対処や、自分をかえりみる必要があるかもしれない。回復することを目標とするのに、この態度はあまり合理的ではないので、もしかすると、治りたくないと感じているのかもしれない。その場合は、自覚の薄い、Aの応用形かもしれない。




C:休みにくい。このパターンの1つなのかもしれないが、個人と社会のギャップを埋める闘争、と言う形で、裁判でたたかうひともいるようだ。それはそれで、良いと思う。社会の側が認めれば、Aの状況になる。

ただし、私自身は個人レベルでの対処策を考えていきたいので、社会福祉や労組、裁判といった話題にはあまり触れないと思う。そういうのがきらいだとかいうわけではなく、スピードの問題で、根気強い活動が必要になるかもしれず、価値観の違うものとのやり取りはそれだけでストレスだし、相手が用意した枠内に、自分を譲歩させる必要もあるかもしれない。妥協は必要かもしれないが、相手の理解できる枠内で生きなければならない、というのはなかなかつらいというか、振出しに戻る、という感じがしなくもない。

所属する社会が合わない、という考えがあるなら、その先を具体的にイメージしたいところ。



D:絶望的。だが、これはこれで、あり、だとも思う。その個人がどこまで動いていられるか、という問題になってしまうが。

絶望的ではあるが、実は、この状況で、日常を送る人は相当いるのではないかと思う。はた目には、疲れた社会人、あるいは学生。その実、とっくに体は煙を吹き出し、精神は悲鳴を上げている。なんとか、ぎりぎりの癒しで、動いている。







分類をしてみたが、意味はあっただろうか。


まず、社会の側が、認めるかどうかは、こちらでは決められない。


そして、認めさせたい、と思うときには、基本的に、個人レベルでは認めている、という状況になると思う。
(社会福祉的なマインドの強い人や、誰かのためにと思う自覚の薄いD状況の人が活動するパターンはあると思う)



ということで、とりあえず、問題を個人が認めるかどうか、というところで考えてみたいと思う。




それでは、また。








口直しの音楽は何にしよう。

週末で、昼にパソコンに向かっていたので、昼下がり的なやつ。それで、ちょっと、けだるい曲。




キリンジ/エイリアンズ

ブログのネーミングと自分語り。




なんだか、前回はギトギト書いてしまった感じがしたので、一旦、調子を変えようかな、と思った。


それで、この本ブログのタイトル『the good life』というネーミングについて。


なんというか、けっこう、ギリギリな感じがする、イタイ?みたいな、そんな危惧は我ながらある。

そういう歌謡曲ってあるじゃないですか、『FOREVER~永遠~』みたいな、そういうタイトル。



weezerというアメリカのバンドがいて、『the good life』と言う曲がある。



特別に好きかと言われると、強くはうなづけない。好きだけど。




話は、うだつの上がらないフリーターをしていた二十歳ごろにさかのぼる。

私は東京の西の方で,フリーターをしていた。働くのはいやだった。行きたい美術展やライブがあって、そのためには働かなくてはならなかったが、働いていると本を読む時間が足りなくなる、と憤り、親しい友人たちは皆、大学生か予備校生で、平日の昼間でも休日の深夜でも遊びの誘いがくる。

びっちり働いて、スッカスカに休む、というリズムで生活していた気がする。とはいえ、そんなシフトを許す都合のいい会社があるわけもなく、登録制のアルバイトなんかをしていたが、望むとおりに仕事が来るわけでもない。私は常に困窮していた。





目覚めると、アパートは金色の夕日で満たされている。

あぁ、今日が終わってしまう。

それでも、どこかのんきで、金がない以外はそれほどつらい気分でもなかった。

夕焼けを見ながら、コーヒーをドリップし、壁が薄すぎてゆがんでいる部屋に大音量で音楽をかける。

何か食い物があれば、それを口にする。

たいていは、ホワイトチョコデニッシュ、あるいは、納豆と卵、金がなければ、何もない。

それから、チャリンコで駅ビルまでいき、閉店まで立ち読みと試聴を続ける。

金があれば吉野家の並にショウガをごっそり乗せて食す。金がなければ、何も食わない。

ブックオフで閉店まで立ち読みと物色を続け、100円の本を一冊ほとんど毎日買った。

それからアパートまで帰り、明け方まで本を読む。空腹に耐えかねるときは、カロリーの高いカップ焼きそばなどを食す。

コーヒーをいれ、しこって、目ざましテレビを観て、朝寝る。

目覚めると、また夕方。

繰り返し。





暗くて金がなくて、何もしなかった。後悔すべき時間だと思う。

だけど、暗かったが、どこか透き通った感じのする時間だった。



そんな日々、ともに過ごした友人にカネダがいる。


彼は高校の同級生で、予備校で京都大学を目指しながら、いつでもプロ野球選手になれるようにと公園でトレーニングを積む超人だったが、本当は超人ではなくて、私の友人に過ぎず、受験勉強をさぼって遊んだり、私が彼の予備校の講義にもぐったりもした。


希望と現実、というおそろしく基本的な板挟みを感じる時期に過ごす友人というのは、どこか特別な感じがする。


カネダは、京大も慶応も落ち、東北の大学へ進学することにした。


予備校の寮を出たカネダは、都落ちを控えた数日、私のアパートに寝泊まりした。




カネダ、2000円貸してくれ。

いいよ。どうした?

この金で、メシ食いに行こう。

ギャハハ


そういう日々も終わる。



私は東京駅まで彼を見送った。

「世話になったな」

彼はそう言った。

「おれも」

私たちは、抱擁も握手もせず、そんなことをつぶやいて静かに別れた。


私は男がするさびしい表情というものを初めて見た気がしたし、私もそういう顔をしているような気がした。



私には金がなく、所持金では立川まで帰れそうになかった。私は、ホット缶コーヒーを買った。

残金では荻窪まで。



それでよかった。

荻窪に着くと、すでに缶コーヒーは暖かくなかったが、その夜はずいぶんと気温が高く、私は立川まで歩き出した。

次の入金のあてがあった記憶はない。

グッドウィルやフルキャストから現場の指示が来たら、前夜からチャリかなんかでいけばいい。

そんな気丈なことを考えて歩いた。

カネダを見送った後で、暗いことを考えたくなかった。

分厚いパーカーは汗がにじむほどだったが、ポケットのコーヒーは気温よりも冷たい感じがした。

夏にはどこか旅行でも行けたら、とか、カネダの抜けたドラムにオオキを入れるのはいいが、今度会ったら、誰が何を担当するのか、とか、自分も大学に行きたいな、とか、とりとめなく、考え事をして歩いた。


国分寺を過ぎたころだった。

コンビニや寄り道を経て、すでに深夜だった。

桜並木の街道があって、満開だった。

はじめて、桜を見た、そんな気がした。

金がないので我慢していた、残り少ないタバコを吸い、また歩き出した。

私は、鼻唄をうたっていた。


ふと、その唄がさっきから頭で鳴りつづけていたことに気づいた。

そして、それは、誰のものでもない、初めて聴く曲だった。


私は、うわさには聞いていた、メロディが降ってくる、という現象に酔った。本当は降っていないが。

忘れたくなかった。

何度も反復し、水をなみなみとたたえたグラスを運ぶように、アパートまで歩いた。

カネダを見送ったことなど忘れていた。

帰り着くころには完全に覚えていたが、記録しておきたいと思った。

ギターでコードをつけ、それをノートに書いた。


弾いてみるとそれは、weezerの『the good life』にそっくりだった。




完全なオリジナルだろうが、パクリだろうが、明日の金にはならない。




いつもの明け方に戻った。




カネダは実家についただろうか。


ケータイには彼からのメールが来ていた。


タイトルは「バター」

本文には、見送らせて悪かったな、夏には遊びに行くよ、などと書かれていた。


バターの意味が全く分からなかった。


朝方、空腹に耐えかね、冷蔵庫をあけると、卵と梅干とマヨネーズとバターがあった。


私は、バターを手に取った。紙箱から、1万円札がのぞいていた。


私は、なんら有効利用、ということもなく、感謝と安堵と空腹でコンビニに駆け込み、弁当とタバコを買い、やがてその1万円がなくなるまで、働きもせず、毎日を繰り返した。



その日々を後悔はしないが、成長しただろうか、と心配になる。




『the good life』はそういう感じで、ブログの名前に使いました。







情報を喚起する音楽もあるし、精神がリセットされるような音楽もありますよね。





2013年5月24日金曜日

新型うつは治らない、ような気がするので




現在、いやなことを棚上げにしている。

いやなこと、というのはお金に関わっていて、棚上げ、というのはケータイの着信無視。

我ながら最悪だが、心が決まらなくて、電話に触れることさえいやだ。



電話、あるいは、インターホン、といった外部とのインターフェイスは一度悪循環に陥ると恐怖の窓口でしかない。

良い知らせや、素敵な来訪だって同じところからやってくるのに。



インターフェイスについて、もう少し考えてみる。

私の理解だと、ある世界とある世界の境界にあたるもの。


パソコンの画面は、ネットと私を。

水面の向こうの犬がくわえている肉を欲して吠えたら、自分の肉がなくなってしまったわんちゃんにとっては、水面がインターフェイスだと言ってよいと思う。

あなたが、今、自室でこれを読んでいるとして、窓や、ドアの鍵もそれにあたるかもしれない。




村上龍の小説で、自室の窓に目張りをしてひきこもる青年が、その目張りの紙をくりぬき外部をのぞくことで物語が動き出す話があった。
(作品名がなんだったか自信がない。たぶん『最後の家族』)

解説の精神科医が(斉藤学か斉藤環)、「おなじくひきこもりを取り上げた『共生虫』のひきこもりの人物像には無理があったが、今回は実態とかい離していない。しいて言えば、目張りに穴を開けることもないだろう、というところだが、物語の駆動装置として致し方あるまい」、みたいなことを言っていた。


インターフェイスのありようは、人によって全く違うということになるのだと思う。



仮に、インターフェイスの強度?透明度?アクセス可能性?みたいなのを単純に数値化して、数直線にしてみる。


引きこもる人のように、なんぴとたりともアクセスさせない、厳重で、光を通さない、そういう状態をとりあえず、「100」とする。もはやインターフェイスとは呼べないかもしれないが。


では、逆に、もう一方の極北、「-100」はどういう状態だろう。
オールオッケー、超ウェルカム、というのではせいぜい、「-50」くらいかと思う。

たぶん、「自分がない」という状態ではないだろうか。

自分と他人の区別がない。次元が別れていない。自意識がない。

これもまた、インターフェイスとは呼べない、というか、ない。





なんで、私はこんなことを書いているのだろうか。





例によって、結論とか、ないです。

でも、こういうふうに物事にアプローチしていると、なんとなく、世界が見えやすくなるような、そんな感じがするんです、私の場合。

そうすると、なんとなく、自分のことも、これまでより整理して考えられる。


そういう人はじつは結構多いような気がする。




なんか、攻撃的なことを言いたいわけではないけれど、うつ病をとりまく環境って、馴れ合いか偏見のどちらかに偏ってしまっている気がして、気持ち悪いときがある。


薬の名前とか、脳内化学物質の名前とかを羅列する専門家や、耳触りのいい同じことを繰り返し言う民間のカウンセラー、とかアプローチはいろいろ。



ところで、うつへのアプローチそれ自体の自由度ってどんなもんなんだろう。



間違うと死んでしまう、だから、クスリ、みたいな感じで画一的なのかな。

クスリが合う合わない、とかはあるだろうけど、「死なせないために脳内物質をいじる」と言う意味では同じこと。


「無理しちゃだめだよ、ゆっくりね」
みたいにひたすら安静を促す言葉をかける、とか。





なんかもっと、うつへの対し方それ自体が人生、みたいな感じで、「えっ、そこで、それ?」みたいな大間違いなアプローチする人とかいないのかな。






なんかふざけたこと言ってるみたいで悪いけど、くそつまらない社会のゲームに適応不全起こすような、お笑い感性するどい不適合者が、いざ治療の段になると、治療ゲームみたいな感じになって、ツッコミもないのはなんなんだろう、そんな風に思えたことがある。



社会性や心理、人間関係といったものとは無関係に発症する器質的なうつもあると思うのですが、それこそ、薬飲んで寝れば治るんではないかと思う。林公一という精神科医がそんなことを言っていたような気がする。

私自身も、たぶん、器質的な、脳の問題だったのだと思う。薬飲んでいたら良くなった。




問題は、新型うつ、とか言われる方だと思う。



誤解を恐れずに言えば、私は、これは、治らない病気だと思う。

治ることが害である、みたいなメカニズムを持つ印象を受ける。




※急にお詫び※

勝手なことばかり言って申し訳なく思います。
そう言える根拠を出せと言われてもありません。うつの人との関わりの経験についてはいつか書きます。
ただし、経験があるからそれを根拠にモノが言える、というスタンスがあまり好きではありません。
まるで、震災経験者しか命を語れない、みたいな感じがするし、経験さえあれば好きにモノを言える、という傲慢さに通じる気もするし、何より、根拠がなくても経験がなくても、考える自由がある、という状態を尊重したいのです。






なんで、新型うつ病が治らないというのかは、またあらためて書きたいと思う。

新型うつの定義もなんかむずかしい感じがするから、きっかりと何か言えるわけではないけど、「治す治さない」、という考え方ではなく、「発症させない」、というアプローチでいくのはどうだろう、という感じがする。



どうやれば発症しないのか、次回、無理矢理書いてみます。





今後、考え方が変わるかもしれないし、このブログは考えを進化させるためのたたき台のような感じで書いています。

考えがまとまったりしたら、まとめ記事とかも書くようにしたいと思います。



では、また。











口直しミュージックは何にしようかな。







彼女をさがさない





詳しくはないのだけど、風水だったか、そういうやつで、水周りの滞りは気の滞り、みたいに言うのを聞いたことがある。

さっき洗い物をしていると、キッチンの水が流れずシンクに水が溜まり、なんだか、あーあ、という気分になり、ため息を吐いて、今はコーヒーを飲んでいる。

今週は明日仕事すれば休み。そんなことを考えながらこれを書いてる。




ここまで書いた文章から、触発されて、広げたい話題がすでに3つはある。
こうやって、言葉は語るほどに、終着点をうしなって、拡散していくのだな。



冒頭に書いたことから触発された話題。

①「水周りの滞りは気の滞り」みたいなことを言われると、それに自分を当てはめてしまう、そういうメカニズムについて。


②コーヒー。うつになるとコーヒーが飲めなくなる。と聞いたことがあるけど、私自身の経験に照らして言うと、たしかにそうだった。


③明日は仕事。そう、「うつと仕事」って強烈なテーマだと思う。うつと経済。とか、うつとお金、でもいい。





こうやって、トピックをできるだけ整理しないと、ブログを始めてみて、どうも私のブログはまとまりがないし、読む方も疲れるだろうし、わたし自身の負担にもなりそうに感じた。


だから、思いついたときにはトピックを整理しておいて、後日の記事にしたり、そういう工夫をしようと思ったのでした。





ところで、前回の最後に、うつがよくなった後うつの彼女ができた、と書いた。

そのことについて書いてみようと思ったのだけど、そう簡単に書くことはできそうにないし、何を書いていいのかわからないし、彼女のプライバシーは、という問題もある。


そして、あなたのこと、書いていい?と聞くことは、むずかしい。


彼女は今どこにいるのだろう。

実家にいるのかな、大阪に出るあてがある、と言っていたこともあった。

彼女のメールアドレスはまだ、通じるのかな。


だけど、私は、彼女に連絡をつけようと思うことができない。

どこかで、彼女がもういないのではないか、という恐怖を抱いているのだろうか。

逆に、なんのために、彼女と連絡をつける必要があるのか、とも正直思う。

彼女とやり直そうとは、思わないし、今後そういう気持ちになることもないと思う。

きっと私は彼女をさがさない。


だけど、どこかで、彼女の今の姿を、こっそり、のぞき見ることはできないだろうか、と思うことがある。

元気であるなら、言うことはない。

誰か頼れる人と一緒だろうか。

部屋で一人、ぼんやりと、私の知っているよりも老けてしまった姿で、孤独にしているのだろうか。

病院のベッドにいるのだろうか。


正直、どれでもいい。

ときどき、気になる。気になるけど、答えはなんでもいい。どこかにいるなら、それで。



私自身のことを、彼女にのぞいてほしいと、私は望むだろうか。

おそらく、答えはイエス。だから、こうやって、特定の人が読めば、私だと特定できてしまうブログを書いているのだとも思う。




今回はこんな感じで。

ではまた。




あ、そういえば、私は、なんらかの作業中にBGMはかけたりかけなかったりなんだけど、同じ音楽を聴きながら、読んでもらう、みたいなことできるかな、とか、おしつけがましいことを考えて、だけど、私の文章は、どうにも抽象的で、硬質なので、読む最中にはどんなのが合うのかまだよくわからない。



とりあえず、読後の口直しのBGM





2013年5月23日木曜日

やりたいこととやりたくないことの天秤のバネが狂っていないと生きられない







精神科に通っていた時期がある。
20代前半から半ばのころだ。


冬が始まろうとしているころだったと思う。明け方の新宿を歩いていた。アルバイトを退勤して、いつもの帰路についていた。

夜は終わろうとしているが、朝が来るまではまだ時間がある、そんな狭間の時間、街は灰色になる。

暗闇ではないが、発色するほどの光がないせいだろう。私はこの時間が好きだった。


ふと、曇った空から、ひとひらの雪が落ちて来るのが見えた。その時だった。



私は、「自分がすでに死んでいる」という強迫的な妄想に襲われた。



「自分はすでに死んでいて、誰からも見えない」




そんなことはあるわけがない、非現実だ、とあたりまえの抵抗をしても、自分が死んでいる、という実感が強すぎて、どうにもならない。


時間にすれば、きっと10分か20分くらいだったろうと思う。

心臓がはみでてしまいそうな動悸と、今にも発狂した行動をとりそうな恐怖、それらをどうにか落ち着けようと抵抗する言葉。鏡だ、まずは自分を確認して、そして発狂した感じではないか、見てみよう、どこか大きいガラスをさがそう、だめだ、今自分をみたら、余計発狂するかもしれない。

そんな狂った時間。

どうやってアパートまで帰ったのか思い出せない。


たびたびそういう発作があった。


あるときは夕暮れ、大きなマンションの廊下に一斉に外灯がともった瞬間。

ある朝、地震だと思って目覚めると自分が震えていることもよくあった。



そうしているうちに、外出がおっくうになった。


友達には恵まれたと思う人生だが、その友達との飲み会に行く気がしない。行ってもヨタ話を繰り返すだけだ、と思う。


当時は学生だったが、喫煙エリアのざわめきや、スロープを行き来する学生の足音が妙に立体的にきこえて、おかしくなりそうだった。


一番致命的なのは、アルバイトだ。

私は、奨学金とアルバイトで、学費、家賃その他生活費をまかなっていたため、アルバイトにいけなくなってしまっては、どうしていいかわからなくなる。


私は極めて朗らかに、医者の友人に電話した。彼は高校の同級生で、浪人やフリーターを経て大学に入った私とは対照的に、まっすぐ医者になり、当時は研修医として様々な科をまわっていた。


彼は電話口で、いつもの口調で笑いながら、医者として一人前ではないことを前置きし、「みきちゃん、それ、うつだよ」と言った。


そっかー、やっぱり、と私は笑って返答し、近所の精神科を調べた。


精神科にかかる、というのはやはり抵抗を感じないわけではなかったが、外出ができない、働けない、というのは、何よりも避けなければならない事態だった。

精神科はやはり、申し訳ないが、独特だった。精神科だった。

電波を受信しているらしいおばあさんや、同年代と思われるおしゃれな女の子がいた。




私は、精神科にかかるにあたって決めたことがあり、それは、対話的なセラピーを希望しない、というものだった。


私は非常に言葉の多い性質で、なんでもかんでも言葉で表現しようとする。

自分を甘やかすことも、自分を欺くことも、自分を貶めることも、すべて言葉でそうしてきた気がする。

言葉の多い者、言葉をよく操る者が、言葉を思い通りに動かせるわけではないと思う。
言葉には、奇妙な自律性があって、気付けば言葉に引っ張られている、そういうものではないかと思う。



だから、私はできるだけフィジカルに、クスリで動けるようになるならそれに越したことはない、動けるようになったらひたすら動いて、考える暇をなくそう、手を動かす作業を増やそう、そう思って、精神科通いを始めた。



医者は症状を尋ねた。若くヒゲの濃そうなイケメンだった。

私は、時々奇妙な発作があること、外出がおっくうであること、動けないことは合理的ではないからクスリでもなんでもいいから動けるようになりたいことなどを伝えた。


医者はいくつか質問をしてきた。


精神科にかかるに当たり、うつ病とかパニック発作など、何か調べたことがあるか。


私は、はい、と答え、wikipediaなどで、調べたと伝えた。
この質問の意図がわかるような気がした。



人は、動けなくなると、動けなくなってしまった正当性をさがすのではないかと思う。

うつ病を怠惰や言い訳だと言うべきではない、と言われているが、私は精神科に通っていた当時も、うつ病は言い訳の病だと考えていた。


例えば、乗らなくてはならないバスがある。それに遅刻してしまう。
バス停に来る途中、クルマにはねられてしまったんだ、私はそう言い訳し、足にギプスを装着する。嘘のギプスだ。



動けない自分にギプスが必要になる。それは、病を探す、という行動になる。


何か調べたか?という医者の質問は、病探しへの慎重さだと思う。



ところで、私は、うつ病の人を、怠惰だ、言い訳だと責めるつもりはない。ギプスで楽になれるなら、それでいいと思うし、誰だって動けないときには休んでいたい。あたりまえだ。

動けないときに、「動けないから休むね」と言えないこと、言っても通用しない世界は呪ってしまっていいとも思う。





他に、質問されたことで覚えているのは、家族に、精神を病んだ人などがいるか、というもの。



私には敬愛するする人がいて、それは祖母なのだが、祖母は自殺未遂をしたことがあった。家出も多く、娘である母も、家出をしたことがあった。



私は、いいえ、と答えた。


精神を病む、ということに何らかの遺伝的な素質や家庭環境が関わっているのかもしれないが、気分的にこの質問には正直に答える気がしなかった。




他には、学生か社会人か、とか、学校では何してる、とか、就職だな、とか、そういう質問をしながら、特定の原因は心当たりがあるか、というようなことをきかれたような気がする。


思い当たるような原因はなかった。


無理矢理に当てはめれば、いくらでもあったのかもしれない。就職はたしかに喜んでしたいタイプではなかったし、家庭は貧乏だった、アルバイトをしながら学校に通い、読みたい本や、弾きたい曲や、行きたい美術展は腐るほどあった。

やりたいこととやりたくないことの天秤のバネが狂っていないと生きられない、そんな感じではあった。


ただ、私は原因探しをしたくなかった。言葉のゲームにとりこまれてしまうように感じられたからだ。


病を探すように、過去に原因を求める。

それは容易に過去をねつ造することにつながる。


あのとき、こうなったから、今こうなっている。


それは、現状肯定に役に立つならいいのだが、負の光が過去から現在を照らし、本当は笑える輝かしい過去が、暗いものになってしまう。

私は過去を振り返るタイプだ。それは過去が美化されているから。美化された過去は、美しいままであってほしい。

だから原因探しはやめた。



それで、医者は、離人の症状が強いね、若い女性なんかがなりやすいみたいだけどね、みたいなことをにこやかに言って、薬を処方してくれた。

もう忘れてしまったが、その日処方されたのは、ジェイゾロフトという薬と、名前を度忘れした、睡眠薬の2種類だった。


うつ病ですね、とは言われなかった。



先の医者の友人に精神科行ってきたよ、これこれのクスリを処方されたよ、と伝えると、「ジェイゾロフトって出たばっかりの新しい薬だよ、薬屋に営業されて使ったのかな」、などと病院の舞台裏を交えてからかってくれた。


医者と患者の信頼関係はもちろん重要だと思う。しかし、どこにだってビジネスは存在する。

ビジネスと美学が相反するわけではないが、もしこの世に「尊厳ある苦しみ」のようなものがあったとしても、医者は患者の死を避けることを第一とするだろう。

尊厳死のために殺人者として裁かれる医者もいる。


医者だって、患者に死なれたくない。そのためには、薬漬けにしてでも生きさせる選択をとることもあるだろう。

医者だって、普通に楽しい生活を送りたい、フツーの人間のひとりだろう。


医者のにこやかな対応が、患者を死なせないための技術で、患者と医者の対話が、死を遠ざけ、問題を棚上げにする、医者ごっこ、患者ごっこだったとして、何の問題もない。


ただ、私はそういうところに長居するには時間が足りない、というか、金が足りない!、そう思ったので、クスリとフィジカルなアプローチで行こうと思ったのだった。


たぶん、今思えば、若くて体力があったし、若いなりの攻撃性というかアッパーな衝動も眠っていたのだと思う。


結果的に1年はかからずに、病院に通う必要もなくなった。

その期間のこともいつか書くかもしれない。

ただ、私の病気に対する姿勢はややへそまがりだし、誰にでも期待できる病気との接し方ではないようにも思う。



実際、鬱になってしまった人は、どういうアプローチをとる人が多いのかな。



病院に通わなくなっても良くなった私に、恋人ができ、その人は長くうつ病を抱えているひとで、そしてつきあって数年経ち、別れた、そんなことを今度書きます。







ではまた。